気功師象師匠の目に映る人生の日々である。人生は旅である。旅は癒やしである。癒やしは神である。癒やしである神のいる風景を求めて現世この世を徘徊するわけである。徘徊かよ。
2011年5月1日日曜日
大國魂神社・光を受ける人達1
はてさて、あちらの方から漂(ただよ)ってくるわけのわからんお幸せの気はなんなんでしょうかとゆーことで、カメラはさらに寄ってみるわけである。
皆さんで天を仰いで天照皇大神の放つ神の光のご利益を手で受けてご満悦のご様子であるのである。
まあ、手は気を一番感知しやすい部位であるうえに、重要な気の出入口でもありますので、まあ、そこに太陽からの電磁波である光を受ければ、それなりに体内は活性化しますので、やってることはあながち間違いでもないわけであるのであるが、まあ、信ずるものは救われるわけである。
緑のおばさまが指導者なのかなんなのかいろいろ解説してるようでありますので、さらに寄ってみるわけであるが何を言ってるのかわからないのである。
まあ、あたしみたい話し声をファミレスで注意されるような1里四方に響き渡る大声だと、この手の教義なんぞの場合には差し障りがあるでしょうから、小声の方がいいとは思うのであるが、それにしても小さくてわからん。
神のご利益を願い手のひらに天照皇大神の神気霊気を受ける皆さんの背中の周囲には、皆さんには見えないいーろいろなものが寄り集まってきて、さらにてんやわんやの面白状態であるのである。
まあ、神社にはそこに所願を建てる人の情念想念が集積して属神眷属となり境内にうようよしており、それが同様の霊気波動を求めて寄り集まるわけである。
たとえば欲のための所願を建てるようなうっかりした心持ちで神社に参ると、その波動に感応したわけのわからないものを背中に背負ってお帰りになるのである。
欲のための所願とは「神に何かを願うこと」であるのである。
神は願いを聞くことはないのである。
まちがっても、願い事をしてはいけないのである。
神社参拝というのは霊験があろうとなかろうとひたすら感謝の気持ちを神に伝えることであるのである。
Camera : RICOH GR DIGITAL Ⅲ
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