2019年12月16日月曜日

高幡不動尊のござれ市で連獅子の黒塗り彫金小屏風を買う



まあ、高幡不動尊の境内では毎月第三日曜にござれ市てないわゆる骨董市あるいはごみの市が開かれるのであるが、この日は今年最後のござれ市である。


もちろん、あたしにとってはごみの市であるが、そこはそれ趣味マニアの人にとっては宝の山であるので、失礼きわまりない言い方であるのはいうまでもないことである。


この日も100店舗近く出店しているのであるが、ぐるぐると3回廻っても、宝物に出会うことはなくて、ゴミの山を徘徊するばかりである。


興味がほとんどないので、いったいなんなのかもわからんものばかりであるが、もしかすると某鑑定団に出せば数百万円のものも隠れていいるかもしれないのである。


このどうみてもガラクタにみえる石の類いだって、ヒスイやメノウかもしれないし、中にはエメラルドとかルビーやサファイヤてなものが混じっているかもしれないのである。


てなことを妄想しながら歩いてたら、裏の方にものすごくわけのわからない展示物を見つけたのである。

いままでみたことがない店で、今回が初めてである。


展示物の意図がよくわからん店で、実に不思議なものばかり売ってるのであるが、別にお化け屋敷ではないのである。


寄ってみると子供とトリの合体したトリ子供とか、わけのわからん石であるとか、金網のかごに入った動物の頭蓋骨てな、いわゆるアートらしいのである。

トリ子供であるから、トリエンナーレの津田さん関係かというと、別に表現の自由をあれこれしてるようすもないし、もちろん寺の境内であるからおコツがいろいろあっても別に問題はないわけである。

トリ子供のアートは少し気に入ったが、これを道場に飾ると弟子が減るだろうし、人形関係は憑いた霊をあれこれするのがめんどくさいので、お買い上げは控えたのである。


まあ、ひたすら気味の悪いものをアートとして表現しているのかもしれないが、いったいこれを家の装飾品としてお買い上げになるもの好き、いや失礼、マニアがいるのかどうなのか、どなたの作品がしらんが大きなお世話で心配してしまうのである。

このござれ市にはときどき画家さんなどが自ら作品を販売してるので、まあ、いわゆる骨董ではなく、なんでもござれのござれ市ということで、そのうちのひとつであるわけである。


機械で胴体を引き裂いている作品と後ろの方は人間の骸骨のアートであるので、日常ではそうとうに不快なものばかりであるはずのものが、見慣れてくるとなんでもなくなってしまうのが人間の感性の不思議である。


それで会場をさらにぐるぐる廻ってたら、トイレのとなりで売ってた連獅子の黒塗り彫金子屏風に目を奪われたのである。

思わず店主らしきおじさんに「これいくら?」と聞いたら「2000円」というので、「にっにっにっにしぇえんんんん?」と仰天して、もちろん太っ腹に大枚1000円札二枚の現金キャッシュをポンと手渡して即お買い上げになったのである。


道場の入口上がり框にこの小屏風を飾ってみると実にこれがみごとにマッチするのである。

なにしろマッチであるが自分で言っておいてマッチだけに顔から火が出る思いである。

ただいま低劣極悪極まりないダジャレをかましましたことを平身低頭して心よりおためごかしで陳謝いたします。


黒漆とみられる装丁に、みごとな連獅子の彫金を配した逸品である。

あたしのような骨董の達人ともなると、トイレのとなりで売ってても、その価値を見逃さないのである。

左に親獅子と右の子獅子の掘り具合をみれば、この作家がただならぬものであるのが、おなじアーティストとして心をえぐられるぐらいわかるのであえる。

だれがアーティストだ。


これだけの作であるから、もしかするとプレミアがついて数十万円いや数百万円てなことだってありえるのである。

そうなれば大儲けであるので、その暁にはさっそくイオンモール多摩平の森のフードコートでとんかつ定食を二人前食うのである。


それで、作者の銘をみたら、鎧袖作とあるではないか。

こっこれは高名な甲冑師上原鎧袖先生のお作であるではありませんか。

とんでもないものをたった2000円で買ってしまったのである。

神の采配とはこうしたものであるので、冨はしかるべくところに配置され、しかるべくところから奪われるのである。

神棚に拝して神にお礼を申しあげて、これはすぐ某ヤフーオークションで価値を確かめようということで、検索したら、有名な大家だけに出品者がいて値段が出てきたのである。

甲冑師 上原鎧袖作 黒塗彫金小屏風一対1980円。

20円損した。

にほんブログ村 写真ブログ 写真家へ 人気ブログランキングへ 写真でポン

2019年9月28日土曜日

宮ケ瀬湖の水の郷大つり橋を渡る



心霊マニアの間では、宮ケ瀬湖といえばひもなしばんじーの名所の「虹の大橋」であるが、この「水の郷大つり橋」も、ひもなしばんじーのしやすさという点では負けず劣らずのあれこれである。

しかし、虹の大橋は県道そのまんまが橋になっており、通りがかりでお気軽お手軽にひもなしばんじーする人がよーけおったのかどーなのか、高いフェンスを取り付けてあるが、この水の郷大つり橋はばんじーポイントまで行くのに、体力も気力もいるので、まったくひもなしばんじーはなかったらしくフェンスも何も無しで、ながめは実に絶景である。

まあ、水の郷大つり橋には公園側でなく住宅地側から行けば簡単であるが、その入口もわかりにくいので、わざわざ探してばんじーする人もいなかったわけである。

動画の冒頭から当日の天気の都合で非常に暗鬱とした色調の画面で、わくわくするような怪しい何かしらに出会えることを楽しみにしていたのであるが、当たり前であるが以上の理由でなんにも映っていないのである。

映ってるのは絶景をなんとかものにして、雑誌等の写真コンテストで賞をもらいたいカメラじじい、いや失礼、ご高齢のカメラマニアばかりである。


宮ケ瀬湖の水の郷大つり橋を渡るには、まず、土産物店や飲食店の集まった水の郷商店街の前の駐車場に車を停めて、てくてくと商店街を抜けて歩いて行くのである。

平日であるので、観光客はぜんぜんいないのであるが、おそらく土日祭日は大賑わいなのかもしれんのである。

まあ、とにかく商店街を抜けたら大きな階段があるので、それを降りるとけやき広場てなだだっ広い公園である。


けやき広場から階段を見上げるとこんなであるが、帰りはこの階段をえっちらおっちら登らなければならないので、体力脚力に自信のない諸氏には、それなりの覚悟は必要である。


水の郷大つり橋はこのだだっ広い芝生の広場のはるかかなたで、ここからは影も形も見えないぐらいの広さである。

ううむ、めんどくさいからやめようかとくじける心に鞭打って、男心は秋の空である。


それで広場の周囲がアスファルトになっているので、それをてくてくてくてくてくてくくてくてくてく、やんなるぐらい歩いて歩いて歩いて歩いて、さらに歩くのである。


てなことで、周囲をぐるりと回って階段がはるか遠くに見える反対側に来るとつり橋への分かれ道になるのである。



分かれ道からはけっこうな坂道を、また、てくてくてくてくてくてくてくてく登るのである。


坂道を登ったところで橋の入口が見えるのであるが、橋の橋梁の高さが意外ねというぐらいの高さなので、なかなか壮観である。


橋を渡る様子は動画でご覧いただきたいが、とにもかくにもここまで来るのに脚力体力自慢のあたしでも「ううう、めんどくさ」というぐらいであるから、ひもなしばんじーしようなんことでてんぱってる人は、ここまでのめんどくささで「今日は中止」てなことになるだろうねと思うぐらいのめんどくささである。


そんなめんどくささを乗り越えて橋の中央付近まで来ると、カヌー教室などが開催される親水池からの流水が見えたり、宮ケ瀬湖や周囲の山々の風景の絶景がご鑑賞できて、なかなかのお楽しみである。


その放水口のわきには遊覧船の乗り場があって、ひもなしばんじーするよりもこれに乗って楽しんだ方がいいと思うのはあたしだけではないかもしれないのである。

これ、大丈夫なの?

にほんブログ村 写真ブログ 写真家へ 人気ブログランキングへ 写真でポン

2019年9月11日水曜日

大山ケーブルカー



大山阿夫利神社から下る大山ケーブルカーである。

ケーブルカーはなんといっても下りの醍醐味をじっくりと味わうのが、あたしらケーブルカーマニアの鉄則である。

だれがケーブルカーマニアだ。


ケーブルカーてなものはケーブルで引っ張られて上がったり下がったりするわけである。

当たり前であるが、ケーブルカーは万全の対策で落ちることはないとわかっていても、高所恐怖症のご同輩にはケーブルが切れると転落するかもしれないという恐怖が心理的に常につきまとうわけであるので、下りの真っ逆さまに落ちそうな具合いが実にホラーまがいの恐怖ホルモンノルアドレナリン放出で心胆を寒からしめてしょんべんもれそーなぐらいのお楽しみである。

ただいま極めてお下品な表現がありましたことを、弊社一同、心よりお詫び申し上げます。


大山ケーブル駅の横にある根之元神社である。

ケーブルカーにご乗車のみぎりは必ずこの神社にお参りして無事故を願うのがケーブルカー乗りの基本である。

そんなに怖いんならやめりゃいいのにというしごくごもっともなご意見もあるのは重々承知の上であるが、そこはそれ絶叫マシン的なお楽しみも味わえるという一挙両得一石二鳥のお得感である。

不正解。

なにが?

しらんがな。


悪縁・邪念を断ち切る、開運・病魔退散のご神徳あらたか、である。

まあ、悪縁も邪念も不運も病魔もありがたい人生のお楽しみであるので、成り行き任せと言いたいところであるが、高いところはやっぱり怖いから拝んじゃうもんね。

なむなむ、ああちがったもとい、はらいたまいきよめたまえまもりたまいさきわえたまえ、なむなむ、こらこら。


もちろんいつものごとく大枚100円を払って、いやもとい寄進して五分間のケーブルカーの旅の安全を心より祈念したのはいうまでもないことである。

5分で100円は高いかどーか非常に悩むところであるが、そこはそれ神頼みというくらいであるからたはは。

オチが見つからんからといって、途中でやめるなよ。


この先、世界はいったいどの方向に向かうのか、神も仏もあったもんではないのか、果たして象師匠のステージはどこまで上がるのか。

ステージって古くねーか。

お前はだまってろっ、しゃべり過ぎなんだよ!

当番組で一部の出演者が声を荒らげたことをお詫び申し上げます。

無理に笑わせようとしなくていいんじゃないの。


にほんブログ村 写真ブログ 写真家へ 人気ブログランキングへ 写真でポン

2019年7月27日土曜日

夜10時の羽田空港国際線到着ロビー



7月13日10時ごろの羽田空港国際線ターミナル到着ロビーの様子である。

なかなか映像として表現するのが困難であるが、この時間帯に着く便が多いのか、大混雑である。

迎えの人と降りる人が交わって大混雑の上に、5~6人の中東方面の若いおにーさんが酔っ払って大騒ぎしてるし、おじさんの二人連れが出てきてすぐ中に入ろうとして警備の人に「ちょっとちょっと」と連れ戻されて「鞄まちがえちゃったので戻りたい」なんてわめいてるし、さらには、どこの国かわからんが、ブルーの制服を着た小学生の一団が旗を持ってるおばさんのもとに集まってワイワイしてるし、小さな子供は走り回って転んだりして大騒ぎである。


それがなんだと言われれば、べつになんでもないのであるが、夜中に大混雑する空港の到着ロビーをつらつら眺めながら、いやはや実に日本は充実してるなあというのが実感である。


まあ、関東大震災から速攻で立ち直り、敗戦から速攻で立ち直り、昨今の災害・震災からもあれこれ問題を残しながらも速攻で立ち直り、どー考えても世界で最も充実した平和な国のひとつであるのは想像に難くないのである。

あたしが極め付きの楽観主義者で、なんでもかんでも良い方向に感じてしまうからだろうと言われればぐうの音も出ないが、ううう、なんだこの気の抜けた文章はよー、だから日本ペンクラブに入れてもらえないんだぞ。

誰が日本ペンクラブだ。

先日の参院選の投票率の低さを嘆く識者の弁を聞いても、あたし同様に「いや、べつに現状に不満はないから、今のままでけっこう」てな信条の人が大半であるゆえんじゃなかろうかと思うのはあたしだけではないかもしれないと思う今日この頃である。

どこかの国のように、政治の状態のひどさに諦めて投票率が低いのではなくて、今の生活でおおむね満足という人が多いというのが今の日本の現状であると考えた方がよろしいんじゃなかろうか。

あたしに限っては、某ヨシモトネタで大騒ぎの今の日本の状態にまったくなんの不満もないのである。

別に自民党員でもなけりゃ安倍さんの信望者でもないが、生まれ変わっても「現在の日本」に生まれ変わりたいと思うのである。

そのぐらいお気楽な人生を、誰に感謝すればいいのかね。

神かね、守護霊かね、背後霊かね、憑依霊かね、地縛霊かね、因縁霊かね。

タタリかよ。



にほんブログ村 写真ブログ 写真家へ 人気ブログランキングへ 写真でポン

2019年6月23日日曜日

高幡不動尊金剛寺のあじさい祭りの日に掛け軸を二本買う


毎月第三日曜日は高幡不動尊金剛寺のござれ市(骨董市)の日である。

骨董品収集家としての顔を持つ象師匠はときどきゴミをあさりに、いや失礼、掘り出し物を探しに駆け付けるのである。

もちろん、良いものを見ることは良い氣を養うことに通じるわけであるから、気功師としての修行の一環でもあるのはいうまでもないことである。

もうしわけありません、わたくしウソをついてしまいました。

まあ、それはともかく、この日はおりしも毎年恒例の山内八十ヶ所巡拝コースに植えられたあじさいを売りにした、いや失礼、ご鑑賞できる、「あじさい祭り」の真っ最中で、不動尊境内の無料駐車場の入口は延々の大渋滞で、いつになった入れるのか見当もつかないので、あきらめて、近くの私営駐車場にご駐車なされてのご来場である。


あたしみたいな無粋ものには、なんであじさいなんかにこんなに人が押し寄せるのはわからんが、とにかく境内はいつにも増して、人でごった返しているのである。

当寺の販促担当者の企画力はなかなかで、一年を通してあれこれお楽しみを我々凡愚の衆生に与えてくれるのである。


その労に報いるべくありがたいありがたいと本堂に詣でて、おためごかしの、いや再度失礼、心よりの祈念とともに、いつものごとく大枚100円を寄進申し上げたのはいうまでもないことである。


それで、ござれ市のゴミ、いや再再度失礼、骨董品の数々をご鑑賞してうろうろしてたら、箱入りの掛け軸が炎天下に捨て置かれていたのである。

しかし、こーゆーところから市井に埋もれた名品を見つけるのが骨董品収集家の醍醐味である。

それで店主のおじさんのご推薦の軸をあれこれ厳正に精査して、今回はなんと二本のお買い上げである。

あたしはこー見えても、いやどー見えるか知らんが、イラスト等でめしを食ってたことがあるぐらいの、いわばプロの絵描きである。

その書画が印刷か肉筆かは一目で見抜けるのである。

その程度かよ

その程度だよ。


つーことで、一本目は山村で畑を耕す農夫を描いた山水画である。


早春の風景と農夫の畑を耕す動作をみごとにコラボさせた、なんだその、えーと、まあ、なんでもいいやね。

まあ、とにかく、この構成力、描写力、筆運び、なかなかのものである。


「ううむ、これはただ者ではない」と箱書きを見ると、達筆で「山村耕人」と書いてある。

いわゆるそのまんまである。

そのまんまというよりは、単なる中身のメモである。


それではと、作者の銘を見ると「光径」とあるではないか。

光径といえば、もちろん日本画山水の巨匠「小島光径」画伯である。

こっこれはすごいものを買ってしまったのである。

もしかすると叩き売っても50万円ぐらいにはなるかもしれない。

でも、これ1000円である。

1000円かよ。

よく見ると、字がとんでもなく下手だし、わけわからんようにあいまいに書いてあるし、さらには落款もないし、ううむ、やっぱり1000円である。


気を失いそうになるぐらいの落胆を立て直して、次の一本は雪の山中を馬に乗って行く僧侶の図である。


雪の降る森の中を馬子にひかれた馬に乗って行く僧侶の寂寥としたおもむきといい、しんしんと降り積もる雪の音さえ聞こえてくるではないか。

これを名作と言わずしてなんと言うのか。

この名作は店主のおじさんが「2000円」と言い張るのを値切って、1000円でご購入したのである。

おじさんが2000円と言い張るぐらいであるから、ゴミ捨て場から拾ってきたもんではないのは当然である。

論旨がいまひとつ明確ではないが、もしかすると大当たりの可能性が大である。

宝くじかよ。


「これはどうみても、名のある絵師の作にちがいない」とわくわくどきどきで箱書きを見れば、「高原暮雪」とある。

またしても、そのまんまである。

そのまんまというよりは、これも中身のメモである。


怪しい展開にあたしの心は半分折れかかっているのであるが、心を取り直して作者の銘を見れば、「一耕」とあり、さらに落款もあるではないか。

でも、「一耕」ってだれだ?

しらんがな。

1000円だし。

掛け軸は、燃えるゴミの日に出せばいいのかな?

にほんブログ村 写真ブログ 写真家へ 人気ブログランキングへ 写真でポン