毎月第三日曜日は高幡不動尊金剛寺のござれ市(骨董市)の日である。
骨董品収集家としての顔を持つ象師匠はときどきゴミをあさりに、いや失礼、掘り出し物を探しに駆け付けるのである。
もちろん、良いものを見ることは良い氣を養うことに通じるわけであるから、気功師としての修行の一環でもあるのはいうまでもないことである。
もうしわけありません、わたくしウソをついてしまいました。
まあ、それはともかく、この日はおりしも毎年恒例の山内八十ヶ所巡拝コースに植えられたあじさいを売りにした、いや失礼、ご鑑賞できる、「あじさい祭り」の真っ最中で、不動尊境内の無料駐車場の入口は延々の大渋滞で、いつになった入れるのか見当もつかないので、あきらめて、近くの私営駐車場にご駐車なされてのご来場である。
あたしみたいな無粋ものには、なんであじさいなんかにこんなに人が押し寄せるのはわからんが、とにかく境内はいつにも増して、人でごった返しているのである。
当寺の販促担当者の企画力はなかなかで、一年を通してあれこれお楽しみを我々凡愚の衆生に与えてくれるのである。
その労に報いるべくありがたいありがたいと本堂に詣でて、おためごかしの、いや再度失礼、心よりの祈念とともに、いつものごとく大枚100円を寄進申し上げたのはいうまでもないことである。
それで、ござれ市のゴミ、いや再再度失礼、骨董品の数々をご鑑賞してうろうろしてたら、箱入りの掛け軸が炎天下に捨て置かれていたのである。
しかし、こーゆーところから市井に埋もれた名品を見つけるのが骨董品収集家の醍醐味である。
それで店主のおじさんのご推薦の軸をあれこれ厳正に精査して、今回はなんと二本のお買い上げである。
あたしはこー見えても、いやどー見えるか知らんが、イラスト等でめしを食ってたことがあるぐらいの、いわばプロの絵描きである。
その書画が印刷か肉筆かは一目で見抜けるのである。
その程度かよ
その程度だよ。
つーことで、一本目は山村で畑を耕す農夫を描いた山水画である。
早春の風景と農夫の畑を耕す動作をみごとにコラボさせた、なんだその、えーと、まあ、なんでもいいやね。
まあ、とにかく、この構成力、描写力、筆運び、なかなかのものである。
「ううむ、これはただ者ではない」と箱書きを見ると、達筆で「山村耕人」と書いてある。
いわゆるそのまんまである。
そのまんまというよりは、単なる中身のメモである。
それではと、作者の銘を見ると「光径」とあるではないか。
光径といえば、もちろん日本画山水の巨匠「小島光径」画伯である。
こっこれはすごいものを買ってしまったのである。
もしかすると叩き売っても50万円ぐらいにはなるかもしれない。
でも、これ1000円である。
1000円かよ。
よく見ると、字がとんでもなく下手だし、わけわからんようにあいまいに書いてあるし、さらには落款もないし、ううむ、やっぱり1000円である。
気を失いそうになるぐらいの落胆を立て直して、次の一本は雪の山中を馬に乗って行く僧侶の図である。
雪の降る森の中を馬子にひかれた馬に乗って行く僧侶の寂寥としたおもむきといい、しんしんと降り積もる雪の音さえ聞こえてくるではないか。
これを名作と言わずしてなんと言うのか。
この名作は店主のおじさんが「2000円」と言い張るのを値切って、1000円でご購入したのである。
おじさんが2000円と言い張るぐらいであるから、ゴミ捨て場から拾ってきたもんではないのは当然である。
論旨がいまひとつ明確ではないが、もしかすると大当たりの可能性が大である。
宝くじかよ。
「これはどうみても、名のある絵師の作にちがいない」とわくわくどきどきで箱書きを見れば、「高原暮雪」とある。
またしても、そのまんまである。
そのまんまというよりは、これも中身のメモである。
怪しい展開にあたしの心は半分折れかかっているのであるが、心を取り直して作者の銘を見れば、「一耕」とあり、さらに落款もあるではないか。
でも、「一耕」ってだれだ?
しらんがな。
1000円だし。
掛け軸は、燃えるゴミの日に出せばいいのかな?
写真でポン