気功師象師匠の目に映る人生の日々である。人生は旅である。旅は癒やしである。癒やしは神である。癒やしである神のいる風景を求めて現世この世を徘徊するわけである。徘徊かよ。
2011年6月16日木曜日
武蔵御嶽神社参道を祓い清めて六根清浄
ケーブルカー御岳山駅前の御岳山御案内図の前にはどでかい一眼レフをネックストラップで肩からかけて、太い三脚を持ってリュックを背負ったおじんさとおばさんの団体が何やら真剣に打ち合わせをなさっておられるのである。
まあ、あたしはコンデジのGRDⅢをケイタイのケースに入れて腰のベルトに付けてるだけで、Tシャツにアロハつー、まったくの街着であるのであるが、この皆さんはなにしろどなたもすごい装備で風景写真を撮るカメラマニアのサークルの皆さんであるんだろうなあとしばらく見ていたのであるが、まあ、リュックを背負った写真サークルの団体はこの皆さんの他にもうじゃうじゃおられるのである。
今日の御岳山にはいったい一眼レフカメラと望遠レンズと三脚が何台集まってるのかと思うと、まあ、最近、株価を見てるとときどきニコンやオリンパスなんてカメラ銘柄が値上り率上位にポンと上がってくるのは、このおじさんおばさんおねーさんのデジカメブームでバカ売れしてることに理由があるわけである。
まあ、この皆さんの基準は、写真の撮り方てな教科書やプロの撮った風景写真なんてもんを参考にして、いかにその通りに、見本の写真に近い写真が撮れるかということであるだろうから、いかに教科書通りに撮らないか、いかにプロの作品から離れるか、というコンセプトの象源流とは正反対の方向性であるので、おそらくあたしの話はまったく通じないのである。
芸術とはオリジナリティであるのである。
なんつってね。
まあ、あたしの写真は知人の某外国人報道カメラマンによると、「キッチュ」であるそうである。
まあ、ご存知ウィキによると「キッチュ(kitsch)とは、美学・芸術学において、一見、俗悪、異様なもの、毒々しいもの、下手物などの事物に認められる美的価値である。元はドイツ語だが、英語でも同じ綴りで浸透している。」てなことであるらしいのであるが、つまり、へんちくりんであるとゆーことであるわけである。
大天才霊能写真家象師匠に向かってへんちくりんとは大変失礼な話であるのであるが、ごもっともでもあるのである。
まあ、どーでもいい話は置いといて、武蔵御嶽神社参道に入るわけであるので、神のご利益はここから始まるわけである。
まあ、ふもとにも鳥居があったので、そこから登ればそこから参道のご利益があるわけであるが、あたし同様にケーブルカーで来たてなものすぐさ者には、ここからが武蔵御嶽神社の健康祈願成就のご利益修験道であるのである。
まあ、なにはともあれ、参道を歩いて行くと鳥居があって、おばさまがお二人何やら楽しそうにご歓談であるのである。
もちろん例によって、霊気波動の電波を飛ばして「ふふふ、いいお天気ですね、お二人はどちらから来られたのかな?」と話しかけたのであるが、ぜんぜんお答えはないのである。
ああ、おばさま行かないで、あたしの電波を受けていっしょにお花畑をお散歩しましょうよ、と霊気波動を最強にして電波霊波を飛ばしたのであるが、さっぱり効果はなくてどんどん去っていくのである。
ああ、あたしの神通力はもうなくなってしまったのでありましょうか。
神通力ってしかし。
Camera : RICOH GR DIGITAL Ⅲ
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