気功師象師匠の目に映る人生の日々である。人生は旅である。旅は癒やしである。癒やしは神である。癒やしである神のいる風景を求めて現世この世を徘徊するわけである。徘徊かよ。
2011年7月15日金曜日
御岳山駅前広場は霊波も念波もぴーかぴか
ううむ、ぴーかぴかって、しかし。
まあ、宇宙の法則に従うとぴーかぴかであるわけである。
単にケーブルカーの待ち時間の暇つぶしに広場を一発除霊祈祷してみるわけであるのであるが、まあ、誰も彼もがぴーかぴかであるのである。
いや、なんつーか、あたしでも、ネタがないときゃないのである。
やっぱりこれ暑いからかね。
霊魂の念波のちょーしがくーるくるであるのである。
念波とは霊魂から発せられる信号であるのである。
信号であるから赤青黄色のぴーかぴかであるわけである。
この赤青黄色のぴーかぴかがいわゆる念障のもとでもあるのである。
念波である赤青黄色のぴーかぴかの信号は見える人には霊視により見える場合もあるのであるが、まあ、ふつーは見えないよーにできてるわけである。
まあ、それでもそこんところの遺伝子のスイッチが入ればいきなり見えるようになる人もいるのであるが、べつに見えてもたいしたことにはならないのである。
鬱陶しいだけである。
カタコトのひどい文章であるのである。
神のお告げであるから文章に文句を言っては神罰が当たるのである。
しかし、神罰が当たっても最悪で死ぬだけであるので、心配はいらないのである。
今生(こんじょう)でろくなことをしていないとをと死んであの世に行ってからひどい目にあうてなホラを吹いてる皆さんが古今東西たーくさんおられるわけであるが、まあ、どなたもなんとなくお気づきのように、人間は今生でろくなことをしないようにプログラミングされているわけであるので、ろくなことをしないのが今生の正しい生き方であるのである。
だから、あたしみたいに露天風呂のナニのナニを霊視するために日夜霊能修行に励んでいるなんてえのは実によろしい方向性であるわけである。
ナニのナニがナニであるかはとても言えたもんじゃないのはいうまでもないことであるのである。
Camera:RICOH GR DIGITAL Ⅲ
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