気功師象師匠の目に映る人生の日々である。人生は旅である。旅は癒やしである。癒やしは神である。癒やしである神のいる風景を求めて現世この世を徘徊するわけである。徘徊かよ。
2011年7月11日月曜日
テレビクルーも念力除霊で加持祈祷
車の窓からリュックを背負ったハイキングおじさん霊があたしを見てるその向こうに何やら気合いの入った丹田ぐいぐいのおねーさん霊が浮遊しておられるのである。
どうも、テレビクルーのカメラのおねーさん霊であるらしいのである。
カメラがシロートさんのもんとはちがって、数百万てなたぐいのやつである。
この日はテレ東の旅番組の一部でこの武蔵御嶽神社周辺のロケの収録があったそうであるのであるが、まあ、そのクルーかどうかは定かでないのであるが、この丹田の具合いは紛れもないプロのおねーさん霊であるのである。
プロのおねーさん霊といってもあの手のプロのおねーさん霊ではないのである。
あの手とはどの手かと聞かれても、いろいろ人生にははっきりとは言えないこともあるとゆーことであしからずご了承の上ナニしていただきたい。
ううむ、ものすごくてきとー行き当たりばったりで着陸点がぜんぜん見えなくなってるのである。
もちろんこのプロのおねーさん霊の霊気ムンムン迫力満点の後ろ姿も象師匠渾身の大念力でインナーマッスルからの発勁により怒涛の加持祈祷で供養するのである。
「発勁」は「はっけい」と読むのである。
発勁(はっけい)とは、中国武術における力の発し方の技術のことであるのである。
楊式太極拳の第三代伝人の楊澄甫の弟子である鄭曼青によれば「左莱蓬老師曰く『力は骨より発し、勁は筋より発する』」と主張しているわけであるが、この論は形意拳大師の郭雲深の「三歩功夫」にも重なる論であるのである。
つまり、まあ、なにがつまりなのか自分でもわからんが、とにかく、発勁とは発生させた勁(運動量)を対象に作用させる事であり、細かく言えば特定の方法にて発生させた勁を接触面まで導き、対象に作用させる事であるのである。
つまり、特定の方法である象源流太意拳により発生させた勁を指のシャッターとの接触面まで導き、対象であるシャッターに作用させたわけである。
ごく簡単に言うと「右手の人差し指でシャッターを押した」わけである。
なにしろ象源流太意拳であるのである。
あたしはぱーの見本であるのである。
象形流気功法宗家象師匠の面目躍如であるのである。
象気功はひたすらぱーになる方法を追求するメソッドであるのである。
ぱーになった結果出てきたのが象源流太意拳であるのである。
ポッピィピルル、オーシツクツクであるのである。
Camera:RICOH GR DIGITAL Ⅲ
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