気功師象師匠の目に映る人生の日々である。人生は旅である。旅は癒やしである。癒やしは神である。癒やしである神のいる風景を求めて現世この世を徘徊するわけである。徘徊かよ。
2011年10月9日日曜日
北口本宮冨士浅間神社
神社の駐車場から参道に入ると、数百年の歴史のある杉木立に囲まれて昼なお薄暗いのである。
北口本宮冨士浅間神社(きたぐちほんぐうふじせんげんじんじゃ)は、山梨県富士吉田市上吉田にある神社であるのである。
主祭神は木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)、夫神の彦火瓊瓊杵命(あまつひこほのににぎのみこと)と父神の大山祇神(おおやまずみのかみ)を共に祀っているのである。
旧社格は県社で、戦後別表神社となったのである。
日本全国に数多く有る浅間神社(せんげんじんじゃ)の1つであるのである。
浅間神社(せんげんじんじゃ、あさまじんじゃ)とは、富士信仰に基づいて富士山を神格化した浅間大神、乃至は浅間神を記紀神話に現れる木花咲耶姫命と見てこれを祀る神社であるのである。
浅間神社のこの中には木花咲耶姫命の父神である大山祇神や、姉神である磐長姫命(いわながひめ)を主祭神とするものもあるのである。
それらを含めて日本各地に約1300社が鎮座するのであるが、主として富士山麓を始めとしてその山容が眺められる地に多く所在し、富士山南麓の静岡県富士宮市に鎮座する富士山本宮浅間大社が総本宮とされるのである。
参道の途中にある角行(かくぎょう)の立行石(たちぎょういし)である。
この立行石は、慶長15年(1610)の冬、富士講の開祖角行東覚(当時69歳)が吉田の地を訪れ、富士山霊を遥拝し、酷寒の中を裸身にて、石上に爪立ちして30日の荒行をした。
全身より血を噴き、里人の勧めで行を止めたと伝えられている。
角行は本名を藤原武邦といい、天文10年(1541)正月15日、九州長崎で生まれた。
戦国の世にあって天下泰平、国土安穏、衆生済度の大願を成就すべく難行苦行の道に入った。
永禄2年、18歳で故郷を出立ち岩手県盤井郡の 「脱骨の窟」 で37日の行をなし、のち神告により富士の 「人穴」 に入り、四寸五分角(約14センチ四方)の材木に一千日爪立ちするという捨身の荒行をおえ、解脱し角行と称した。
元和6年(1620)角行79歳の時、江戸に 「つきたおし」 という奇病がはやり、三日で千人死んだともいわれたが、「風先侎」 により病を癒し庶民を救い、その名を高めた。
正保3年(1646)6月3日、106歳にて大往生したが、生涯における修行で主なものは、不眠の大業一万八千八百日、富士登頂百二十八回に及んだといわれ、富士講の開祖となった。
富士吉田市教育委員会 昭和60年11月1日
つーことが、立て札に書いてあるのであるが、お釈迦さんが「苦行はなんの役にも立たない」と喝破しているにもかかわらず、そのお弟子さんたちはわけのわからない苦行を古来より現在に至るまでお楽しみであるのである。
まあ、そうはいっても、鰯(いわし)の頭もなんとやらで、信ずるものは救われる場合もあるのであるから、いちがいにばかばかしいなんていっては仏罰が当たるのであるが、ここは神社であるので神罰が当たるのである。
あたしみたいな神も仏もないものは、なんにも救われることはないのである。
象師匠は日本のバチ当たりの代表であるのである。
いいね。
この薪の束は「吉田の火祭り」で使用される大松明であるのである。
これが、各団体からいくつも奉納されて参道に置いてあるのである。
「吉田の火祭り」は大きな松明を燃やし、町中が火の海のようになることで有名で、富士山の「山仕舞い」を告げる「北口本宮富士浅間神社」と、境内の「諏訪神社」のお祭りであるのである。
静岡県島田の「帯祭り」、愛知県国府宮の「裸祭り」と並び「日本三奇祭」に数えられ、毎年多くの観光客でにぎわうのである。
Camera : RICOH GXR A12 28mm 写真サイト
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