気功師象師匠の目に映る人生の日々である。人生は旅である。旅は癒やしである。癒やしは神である。癒やしである神のいる風景を求めて現世この世を徘徊するわけである。徘徊かよ。
2011年9月8日木曜日
修善寺鬼門の日枝神社で狛犬さんも阿吽(あうん)でワン
修善寺の商店街の細い道の中程まで歩いて行くと、なんと日枝神社があるのである。
これはびっくりね。
つーことであるが、この日枝神社は修禅寺の鬼門に当るところに鎮座しており、修善寺同様に弘法大師の建立であるそうである。
明治元年(1868年)の神仏分離令により分離されたもので、もとは修禅寺の山王社(鎮守)であったのである。
さて、お参りするにはなにはともあれ身を浄めなければならないのであるが、この日枝神社の手水舎は舎がなくて、石そのまんまであるのである。
まあ、予算がないといってしまえばそれまでであるが、実にオシャレであるのである。
もちろん、手水舎といえば霊写であるのである。
水は神仏には欠くべからざる重要なものであるので、それも含めて気合いを入れて霊写除霊大祈祷するわけである。
でも柄杓を霊写であるのである。
手水舎の前にはかわいい狛犬さんが阿吽(あうん)の阿(あ)であるのである。
そのトイメンの狛犬さんは阿吽(あうん)の吽(うん)であるのである。
あらら、傾いちゃってるがまあいいや。
さて、身を清めたところで、日枝神社にお参りであるのである。
神社であるから二礼二拍一礼して、神妙にていていと申し上げたのである。
神の言霊ていていがなんであるかはそのうち明らかになるかもしれないのであるが、口から出任せであるので明らかにならないかもしれないのである。
しめ縄もオシャレであるのである。
しめなわは「注連縄・標縄・七五三縄」と書き、地域を区切るための目じるし、または出入禁止のしるしとして張りめぐらす縄のことであるのである。
特に、神前や神事の場にめぐらして、神聖な場所と不浄な外界とを区別するためのものであるのである。
また、新年に門口に張って災いの神が内に入らないようにとの意を示すものである。しりくめなわ。しめ。
わらを左よりにし、その間々に紙四手をはさんで下げるのである。
あのしめ縄に挟んである半紙を切り込んだピーラピラは紙四手というのである。
紙四手は「かみしで」と読むのである。
紙四手は木綿四手(ゆうしで)に対して、紙で作った四手であり、紙垂とも書くのである。
へー。
お参りしたらばとっとと帰るのである。
Camera : RICOH GXR A12 28mm
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