気功師象師匠の目に映る人生の日々である。人生は旅である。旅は癒やしである。癒やしは神である。癒やしである神のいる風景を求めて現世この世を徘徊するわけである。徘徊かよ。
2011年9月2日金曜日
修善寺の手水舎で竜神を霊写する
修禅寺(しゅぜんじ)は、静岡県伊豆市修善寺にある曹洞宗の寺院で、山号は福地山である。
夏目漱石の「修善寺の大患」、岡本綺堂の「修善寺物語」てな作品でも名高い、有名な寺である。
修善寺温泉街の中心にあり、修善寺の地名の元になったわけであるのである。
地名を修善寺(しゅぜんじ)、寺院を修禅寺(しゅうぜんじ)と呼ぶのが正しいと認識されていることが多いのであるが、正確には両方とも「しゅぜんじ」と読むのが正しいそうであるのである。
修善寺は大同2年(807年)に弘法大師空海が創建したと伝えられ、当初は真言宗に属していたのである。
当時は周辺の地名が桂谷であったことから、桂谷山寺と言われ、『延喜式』には「伊豆国禅院一千束」と書かれる程の寺院であったのである。
その後、鎌倉時代初期に修禅寺の名称が定着し、寺領も修禅寺と呼ばれるようになり、また、源頼朝の弟の源範頼と、その息子で鎌倉幕府2代将軍の源頼家が当寺に幽閉され、その後この地で殺害されたとしても知られているのである。
建長年間(1249年 - 1255年)に元の密偵と疑われていた蘭渓道隆が避難のために来住し、それに伴って臨済宗に改宗されたのである。
蘭渓道隆は、南宋の理宗から「大宋勅賜大東福地肖盧山修禅寺」という額を賜り、大陸にまで修禅寺の名を広めたのである。
しかし、残念ながらこの寺額は1863年の火災で焼失してしまったのである。
その後、康安元年(1361年)の畠山国清と足利基氏の戦乱の被害を受け、更に応永9年(1409年)の大火災で伽藍が全焼し、修善寺は荒廃したのであるが、その後、伊豆一国を収めた伊勢新九郎長氏(北条早雲)が、彼の叔父の隆渓繁紹に曹洞宗の寺院として再興させたのである。
現在の本堂は明治16年(1883年)に再建したものであるのである。
本尊は大日如来で、重要文化財として木造大日如来坐像(像内に承元4年(1210年)実慶作の銘)があるのである。
つーことで仕事着のおじさんもお参りして何やらお土産を買ったのかどうなのか、我が師弘法大師空海のご利益に包まれて元気に山門を出てこられたのである。
だからだれが我が師だ。
ううむ、ひとりノリツッコミも、とうに限界であるのである。
山門から中を見ると、おばさまがお二人、お参りするところであるのである。
ああ、早く本堂にお参りして、我が師空海の霊気に触れんと心は流行るのであるが、とにかくその前に汚い我が身を浄めなければいけないのである。
手水舎である。
お手洗いではないのである。
手を洗い口をゆすぎ身を清めるのである。
龍神様も口からお水を吐き出して、ううむ、吐き出してつーのは仮にも神様に向かって不遜であるなあ、そうね、吹き出して、ううむ、同じか、まあいい、とにかく水出してるのね。
ここで、GXR A12 28mm の威力を存分に発揮してみるわけである。
象源流霊写である。
いいね。
あまりにも良く撮れたので、もう一枚霊写してみるのである。
Camera : RICOH GXR A12 28mm
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