2013年12月2日月曜日

岡倉天心記念公園


東京都台東区にある某商店街に物見遊山に来て、トイレを探して路地をうろうろしてたら、岡倉天心の旧居・日本美術院跡地に造られた岡倉天心記念公園てな名所に出くわしたのである。

まあ、この世浮世はすべからく縁であるのが心から実感できるわけであるが、あたしもあなたも縁で結ばれた縁ある間柄であるのであるよおまいさん。

この公園には、岡倉天心廟六角堂があり、その内部には岡倉天心坐像が安置されているのである。

岡倉天心(おかくら てんしん、1863年2月14日(文久2年12月26日)ー1913年(大正2年)9月2日)は、日本の思想家、文人であるのである。

本名は岡倉覚三(かくぞう)、幼名は角蔵(かくぞう)である。

岡倉天心の父・岡倉勘右衛門は福井藩の下級藩士であったが、藩命で武士の身分を捨て、福井藩が横浜に開いた商館「石川屋」(現・横浜開港記念会館)てな貿易商人となり、その商店の角倉で生まれたことから、天心は当初「角蔵」と名付けられたつーことでるのである。

そのせいなのかどーなのか、廟が六角堂であるが、トイレも六角形であるのである。

さらに水飲み場も六角形で、足元を見ると敷石も六角形で、石碑も六角形で、ベンチも六角形であるのである。

おいおいだじゃれかよと設計者の意図を図りかねる造りであるが、まあ、そこはそれそんなことを言うのは子供であるので、あたしみたいな立派なオトナは心に思っても口には出さず、神妙な面持ちで廟に深く二礼して元気よくパンパンとかしわ手を打って、「ああ、しまった、ここは神社ではないからかしわ手はいかん」と気がついたときには時遅し、誰かに見られたかしらんとあたりを睥睨するも幸運な事に誰もいなかったので一安心であるのである。

岡倉天心は東京美術学校(現・東京藝術大学)の設立に大きく関わり、また日本美術院を創設したのであるのである。

まあ、本人は文人つーことであるので、画家でもなく彫刻家でもないわけであるが、近代日本における美学研究の開拓者で、英文による著作での美術史、美術評論家としての活動、美術家の養成といった多岐に亘る啓蒙活動を行い、明治以降に於ける日本美術概念の成立に貢献したつーことであるのである。

まあ、とにもかくにもあたしも絵描きの端くれであるので、美学の啓蒙家の薫陶を受けんと廟の前でしばし佇み、耳を澄ませたのであるが、廟からは何も聞こえてこなかったのである。

これで、もし声が聞こえてきたら、もちろん病院に直行しなければならないのである。

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2013年10月27日日曜日

雨のバンコク・ソイ マハレック ルアン2



まあ、なんである、10月16日にタイに来たのであるが、タイは雨季であるので、天気予報は毎日雷雨であるのである。

まあ、この天気予報が当たらないことおびただしいのであるが、それにしても雨季あるので、雨も降れば雷さまもゴロゴロドカンピシャンと大騒ぎであるのである。

そんな雨と雷の中でも、今回タイに来た目的が、タイ移住計画の一環であるので、とにもかくにもマンションアパートメント探しであるのである。

それで、タイのネットの不動産関係のサイトをあれこれ検索して、これはどうだと見つけたのがこの動画で天までとどけとそびえ立っているBaan Sansiri Condominium(バーン・サンシリ・コンドミニアム)であるのである。

住所がSoi Mahatlek Luang1(ソイ マハレック ルアン1)となってたのであるが、実際に来てみるとSoi Mhatlek Luang2(ソイ マハレック ルアン2)にあるので、これはエリアが1の方であるわけであると思うのであるが、なんのことかわからん人はわからなくてもなんの問題もないので読み流していただきたいのである。

ちなみにSoi(ソイ)とゆーのは通り・路地てな意味であるのである。

月々の家賃は2ベッドルームで55000~75000バーツであるから、まあ、現在のレートでだいたい17万円~23万円であるのである。

ちなみに3ベッドルームだと80000バーツであるから、24万8000円であるのである。

まあ、どうもいろいろわかってくると、この手の高級マンションにはどーもちゅーごくじんの経済開放で大儲けしてる一部の皆さんのご家族が多くお住まいであるのである。

つまり、この手のマンションにお住まいになるとちゅーごくのお金持ちの皆さんとのお付き合いになるわけであるが、まあ、あたしはちゅーごくごはできないし、これから習う気もさらさらないのでお付き合いに発展することはないと思うのであるが、えーごができるちゅーごくの人だとめんどくさいかねしかし。

こーゆーのを取らぬ狸の皮算用つーのである。

ちがうか。

まあ、なんでもいいが、この動画はそのバーン・サンシリ・コンドミニアムの真向かいのマンションの一階にある某せぶんいれぶんつーよーな日本でもおなじみのコンビニの前からのロケであるのである。

このタイのせぶんいれぶんでいろいろ買うとポイントが貰えて、貯まると傘やバッグなんかがもらえると店頭の看板に書いてあるのであるが、そんなに長期に滞在するわけではないので、なにももらえないのはゆーまでもないことであるのである。

まあ、あたしは晴れ男であるので雨季のタイでも傘を持って歩かないのであるが、その神通力もタイの雷様には通じないらしく、店のひさしの下でしばしのご休憩で、あさりの干物のつまみとシンハー・ビールを買って飲んだのである。

しかし、これ、タイに興味のない人にはなんのこっちゃやらわからんネタであるのであるが、まあ、タイであるからタイのネタになるのはしょーがないのである。

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2013年9月27日金曜日

谷中銀座



ううむ、タイトルを神の動画に変えたほうがいいのはご承知の上で、この期に及んでもあえて神の写真で行くのであるが、そのうち神の動画に変更しないとも言えないのはこの世浮き世のあらさのさーであるのである。

着地点が見えなくなるとすぐてきとーになるのもこの世浮き世のあらさのさーであるのである。

えーと、なんだっけ?

ああそうだ、谷中銀座であるのである。

谷中銀座は、東京都台東区谷中3丁目から荒川区西日暮里3丁目にまたがる商店街であるのである。

JR日暮里駅西口からは3分ぐらいつーことであるが、あたしは地下鉄千代田線西日暮里駅からのお越しであるので、ぐるぐる回って徒歩15分ぐらいかかったのである。

谷中銀座につながってよみせ通りてな夜になるとあんなことやこんなことがあるのかなーなんつーいろいろ想像させる艶色満点のお名前の商店街もあるのであるが、観光客は夜店通りを素通りして谷中銀座に集中してワイワイしてるのであるのである。

ワイワイってしかし、ほかになんとかかんとか言いようがないのかねふんとにもう。

ううう、なんか泣きそうになってきてのであるが、まあ、そんなことはともかく、谷中銀座のあちこちの店は客が並んで、惣菜だのまんじゅーだのをお買いになってるのであるが、あたしはまだ腹減ってなかったので買わなかったのである。

それで、この谷中銀座の大人気てなものは、やっぱり昨今のテレビの散歩番組だので取り上げられることによるものが拍車をかけてると思うのであるが、まあ、町おこしとすれば大成功であるだろうねえうんくそーだめだこんなのじゃ天才文筆家としてのあたしのあそこに関わる事態であるがまあなんでもいいや。

えーと、ああ、そうだ、JR日暮里駅から谷中銀座商店街に続く道の途中にある短い夕やけだんだんてな石段が有名であるので、さっそく登ってみたのであるが、動画が撮れなかったのである。

この夕やけだんだんの辺りには、いわゆる谷中猫(野良猫)が多数生息していて、昼間には観光客にエサを求めたり、ひなたぼっこをする姿が多数見受けられるてなことをうぃきに書いてあったのであるが、観光客がおおすぎるせいか、あるいは商店街の皆さんが追い払ったのかは定かで無いのであるが、一匹も見かけなかったのである。

てなことであるが、しかし、これ、霊能企画がもっとーのアレとしてはとしては今ひつかね。

まあ、アレでなくコレでもいいのであるが、こんなとこで尺は足りてるかね、どれどれ。

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2013年9月22日日曜日

観音崎灯台



三浦半島の観音崎灯台(かんのんざきとうだい)であるのである。

観音崎といえば観音崎灯台であるのである。

観音埼灯台は、日本を代表する灯台であり、日本最古の洋式灯台として神奈川県横須賀市、三浦半島東端の観音崎に立つ灯台であるのである。

すごいね、日本を代表する灯台であるのである。

この灯台は白色八角形の中型灯台で、日本の灯台50選に選ばれているのであるのである。

なにしろ灯台50選であるのであるが、ううむ、100選でなく、なんで中途半端な50選つーのかはどーゆーことがよくわからんのであるが、なにしろ50選であるのである。

東京湾、浦賀水道を照らし、東京湾海上交通センターとあわせ海上交通が輻輳する浦賀水道航路の安全に寄与しており、また日本初の洋式灯台であり、この灯台の着工日を記念して11月1日が灯台記念日に指定されたつーことであるのである。

初代の設計はレオンス・ヴェルニー等が担当したが、大正時代の地震により2度再建され、現在の灯台は3代目にあたり、灯台の周辺は県立観音崎公園となっており、自然環境が保護されているのであるのである。

それで、まあ、9月17日であったので、時期が時期であるので、灯台の入り口の前には蜂の巣があって、ぶんぶんぶんハチがとぶのであるのである。

そのハチもスズメバチであるのである。

そのハチにペットボトルのトラップを仕掛けて、駆除なされているのであるが、それでも、ハチはぶんぶんぶんハチがとぶのであるのである。

大霊能者象師匠といえどもこの時期のスズメバチには敵わんので、できるだけ刺激しないようにそーっと脇を通り抜けて灯台の受付に行ったら、拝観料が200円であるのであるが、受付に誰も居ないので、そのまま灯台に登ろうと思ったら、灯台からおばさんが「すみまーん」と出てきたので200円払って無事ご拝観の運びとなったのであるが、この場合、拝観が正しいかどうかはつっこまれてもノーコメであるのである。

灯台の下の囲いの外に立て札があって「まむしとんびに注意飲食禁止」と書いてあるのである。

まあ、まむしに注意とゆーのはたいていはそこに入るなとゆーよーなことであるので、きっと、そこが芝生みたいになってて、観光客なんかが弁当食べるのにいい場所であるので、それを追い払うてな目的かもしれないのであるが、そんなことを受付のおばさんに聞くわけにもいかないので定かではないのはゆーまでもないことであるのである。

それで、とんとんとんと灯台の階段を上がって、レンズを拝見して物見に出たら、ううむ、物見はお城の天守閣かな、まあ、展望台つーことでひとつ、ううむ、これも今ひとつだな、ああ、踊り場なのね、へー、レンズのあるところは灯籠か、そらそうだ、レンズの周囲のガラスはハリハンつーのね、ほほう、まあ、なんでもいいや、つーことで、踊り場手摺から周囲を眺めてみると、目の前は浦賀水道で、対岸の房総半島まではすごく近くて、漁船がたくさん漁業に勤しんでおられて、ここを島かと見まごうようなでかさのタンカーや潜水艦が通れば事故も起きるよなーなんてご感想をお持ちになったりしながら、海は広いな大きいなであるのであるが、浦賀水道は狭いのである。

ううむ、まとまりが悪いな。

灯台に興味が無いからなー。

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2013年8月27日火曜日

横浜スタジアム


横浜スタジアムである。

横浜スタジアムは、日本の神奈川県横浜市中区の横浜公園内にある野球場で、ご存知、横浜DeNAベイスターズの本拠地ホームグラウンド専用球場であるのである。

通称「ハマスタ」「横スタ」と呼ばれるつーことであるのであるが、あたしは特にベイスターズのファンてなことでもないので、きちんと横浜スタジアムと呼んでいるのである。

それじゃ、ファンでもないのになんでわざわざ横浜スタジアムに来たのかとゆーと、あたしはほんの一時期、気の迷いでDeNAの株を所有していたのである。

その一時期が決算時期にかぶっていて、配当とご一緒に、この横浜スタジアムの内野指定席ご招待券か送られてきたので、その中の8月7日の対巨人戦の日にお越しになったのである。

まあ、あたしは東京生まれの東京在住であるので、かつては、当たり前に巨人ファンであったのである。

しかし、現在ではすっかりそれも昔のことになって、野球自体に全く興味がなくなってしまったのであるが、内野指定席ご招待であるので、これは一応行ってみようではありませんかつーことで、みなとみらい21周辺のご見学を兼ねてご来臨あそばしたわけである。

それで、まあ、会社の取引の関係でときどき東京ドームのご招待券が手に入るので、何回か見に行ってるのであるが、東京ドームのなんとなく整然とした感じとは違って、スタジアム全体がものすごくリラックスしてるつーことが印象的であるのである。

それで、スタジアムの外を通りかかったら、従業員入り口の奥の方の業者の出入口の前の縁石に腰掛けて、外人選手がケイタイでメールをしてるのである。

誰だろうと思っていたら、いっしょに歩いていた、おにーちゃんたちが「あ、ブランコがメールしてる」と言ったので「ほほう、あれがブランコか、いや、知らんけど」と納得したのである。

なんで糞暑い業者の出入口でメールをしてるのかは不明であるが、他の選手に見られると麻酔メールであったのかどーかは、ブランコに聞くことはできないので、そのまま不明であるのである。

それで、まあ、夏休みの真っ最中ということもあって、子どもたちがものすごく楽しそうにユニホームを着たりして騒いでいたりして、なんとゆーのかお祭りみたいな騒ぎであるのである。

スタジアム前の広場にはビールや食べ物を売る出店が何軒も出ていて、その前にはテーブルと椅子が配置されて、舞台も設置されて、キャラクターやおねーさんや選手によるイベントも開催中で、た~くさんの皆さんが席に座ってお楽しみで、すでにビールでできあがってるお父さんもおられるのである。

チケット売り場は35度を超える炎天下に長蛇の列で、これもまた、実に楽しそうにお並びであるのである。

並ぶのが大っ嫌いなあたしにはまったく理解できないのであるが、まあ、たとえば海外旅行に行く時なんかは、成田空港からお楽しみが始まってるてなことと同じかね、いや、わからんが。

とにかく会場前から実に楽しそうであるので、野球人気が衰退したとはいえ、このように多くの皆様のご愛顧に選手一同感涙を覚えないわけではないと思うが、まあ、そんなに張り切るもんでもなかろうから、力を抜いて球場の通路をぐるぐる歩いてみたら、これがまた、皆さんリラックスしてお楽しみで、とくに売れ筋はみかん氷てなオレンジ色のかき氷で、老若男女からお子様に至るまでお持ちなって喜色満面ご満悦であるのである。

それで、指定席はどんなんかなーとシートに座席番号のところにいってみたらば、あたしの席に見知らぬおにーちゃんが座ってたのである。

それで、しっしっと追い払って座って見たら、バックネット裏てないい席ではないものの、まあ、こんなもんかなーてな席であるが、やっぱり遠いね。

それで、後ろの席にも「ここは自由席だよなー」てなことをいいながらまぬけそうなおにーちゃんが二人お座りになって、後から来たお仕事終わりの団体のおじさんに「しっしっ」と追い払われていたので、あたしの周囲はどうもDeNA関係者の招待席であるらしく、その手のおじさんで埋め尽くされたのである。

まあ、そんな座席の事情はともかく、そのあとグランドではプレイボール前のお楽しみがいろいろあって、いよいよ、巨人対DeNAの試合開始であるが、暑さのせいでピッチャー不調なのか乱打戦で大変面白うございましたのである。

でも、1時間で飽きちゃって、ビール飲んで焼鳥食って帰ったのである。

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2013年8月18日日曜日

横浜中華街大通り



横浜中華街であるのである。

中国に行かなくても東京近郊の近場で本格的な中華料理が食えるてな、霊能グルメレポーターのあたしにとっては実に便利な街であるのである。

書き出しからこれである。

尺を埋めればそれでOKてな低劣な心の奥底がてきとーな言葉の羅列の字面に満載であるのである。

くだらんことぐだぐだ言ってないで本題に入れ?

はいはい。

横浜中華街(よこはまちゅうかがい)は、神奈川県横浜市中区山下町一帯に所在するチャイナタウン(中華街)であり、1955年以前は唐人町や南京町と呼ばれていたのであるのである。

なしにろチャイナタウンであるのである。

商店街としてのみごとな演出もさることながら、日本にいながら異国情緒を味わえるつーよーな、あたしみたいな物見遊山専門の霊能者には実にありがたい観光地でもあるのである。

まあ、言ってることがその場しのぎであるのを認めるにやぶさかではございませんが、ううう、さらにその場しのぎでドツボにはまって惨憺たる窮状救い難く、だれがだずげでぐれ。

さて、当地の華僑の皆さんの出身地は広東省が比較的多いそーであるが、その他にも中国各地に分散していて、上海路、中山路、福建路など、地名を冠した路地が交差しており、各路地には、当該地の出身者が多くお住まいあるいはお店を構えておられるつーことであるのであるのである。

所在地である中区の中国人人口は6000人を超え、これは同区で登録されている外国人の約4割にあたるつーとであるが、つまりこれ、そのうちの3600人は他の外国の皆さんであるつーことであるので、いやはや横浜は異人さんが大変大勢お住まいお暮らしであるのがわかるのである。

約0.2平方キロのエリア内に500店以上の店舗があり、日本最大かつ東アジア最大の中華街となっているのであるが、へー、こんなに多くて500店なのね、もっと多いよーな印象であるが、まあ、つーことであるそーである。

日本では、神戸南京町や長崎新地中華街とともに三大中華街とされるのであるが、あたしはこの横浜中華街にしかご訪問なされたことがないので、他の中華街についてはノーコメントであるのであると言っておくが、そのうち行くかもしれないのでご期待いただきたいと申し上げておくのであるが、誰もご期待なんかなされていないかもしれないのである。

1866年(慶応2年)の横浜新田慰留地から数えると150年弱の歴史をもつことになるつーことであるのである。。

横浜中華街には、まあ、何度かメシを食いに来てるのであるが、最近はとんとご無沙汰で、前に来たのは何年前だったか忘れるぐらいのお見限りであったのである。

以前に来た時には、いずれもJRの石川町駅から善隣門をくぐってのご訪問であったのであるが、今回は、みなとみらい21ご見学終了後に昼メシのためにご来駕なさったので、みなとみらい線の元町・中華街駅に勇躍降り立ち、山下公園口を出て、朝陽門をくぐってのご来臨であるのである。

中華街といえばやはりこのメインストリートの中華街大通りであるのであるので、ステーションの出口を出て、すぐにロケ隊はカメラの準備をして撮影を敢行したわけである。

動画が途中で一度切り替わってるのはそこでメシ食ったからであるのである。

それでまあ、数年ぶりに来てみての今回のご感想としては、客引きがものすごくしつこくなってるつーことが一番印象的かね。

店舗間の競争もあるとは思うが、特に甘栗売りの皆さんが熱心さのあまり、鎌倉の人力車のうんざりするぐらいしつこい客引きを思い出してしまうぐらいのしつこさであるので、これは横浜中華街発展会協同組合の中華街憲章七章に加えて「しつこい客引きはしない」てな第八章を書き加えることを、横浜中華街の発展をこよなく願う中華街ファンとしてご推奨申し上げるのであるが、大きなお世話だと言われればそれまでであるのはゆーまでもないことであるので、まあ、老婆でもない老婆心ながら一応言っとくのである。

そんぐらいかね。

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2013年8月14日水曜日

みなとみらい21横浜コスモワールド大観覧車「コスモクロック21」



なにしろ、みなとみらい21であるのである。

有り体に言えばのんのこっちゃやらわからんのであるが、まあ、わからんだけに一度行ってみようではありませんかつーことで、パスモにチャージして電車を乗り継いでみなとみらい線のみなとみらい駅まではるばるお出かけになったのである。

それで、駅に降り立って、いったいみなとみらい21とゆーのはどこにあるのかと探してみたのであるが、そんなものは影も形もみえなくて、駅からはクイーンズスクエアてな商業施設が続いていて、その両隣にはランドマークタワーと某ホテルがつながってるのである。

ここに来てはたときたついたのであるが、みなとみらい21というのはどうもこのあたりいったいの開発事業なんではなかろーかつーよーなことであるのである。

まことにイカンに存ずる仕儀であるのであるが、まあ、それもこれも、いつものことで、事前にになんにもお調べにならずにご到着遊ばしてからあーらびっくりねとお楽しみになるわけである。

そこがね、行き当たりばったり人生の醍醐味とゆーのか粗大ごみとゆーのか、まあ、どーでもいいわけであるが、とにかく、クイーンズスクエアなるものには、商業ビルの中のオフィスでお働きのみなさんのお食事のためのレストランがたーくさんと、アパレル関係のショップがたーくさんあるのであるが、レストランはショッピングセンターや百貨店に入ってる店とかぶっていて、心躍る魅惑蠱惑の時間をすごせるとはとても思えないので、お食事は魅惑蠱惑はこちらにおまかせの横浜中華街に行っちゃおうとつーことで、まあ、とにかくみなとみらいといえば大観覧車でであるので、すたこら37度の炎天下を紫外線をこれでもかと受けてコスモワールドの入り口までたどり着いて、まあ、暑い時は水分補給とゆーことで某スポーツ度リンクをガブガブ飲んで観覧車のチケットを買って、スケルトンてなかぎりなく窓が多くて足元も透けてるゴンドラに乗ろうと思ったらば、これは数がすくないので10分待ちだそーであるので、待つのが嫌いなあたしすぐ普通のゴンドラに変更してどんどん頂上目指してカメラを回したのであるのである。

観覧車部分の外周直径は100mで、ゴンドラおよび支柱の総数は60であり、乗車定員480人は日本最大級で、建設は泉陽興業が担当したつーことであるが、そんなことまで解説せんでもよかろうもんと思うのはあたしだけではないかもしれないのであるが、先が長いのでとっとと行くのである。

1989年の建造当時は台座を含めた全高は107.5mであり、観覧車のちょうど中央部分に巨大なデジタル時計(某しちずん製)を設置しただけでなく、支柱部にイルミネーションも設置し、光により「60」の秒数および分数を刻む構造となっていたことから、「世界最大の観覧車」および「世界最大の時計」としてギネス・ワールド・レコーズに掲載されたこともあるのであるが、掲載されたこともあるつーことは現在はさらにでかい時計がギネスにけいさいされてるつーことなのかどーなのかは定かで無いのでうやむやにしておきたいのであるのである。

その後は日本各地で巨大観覧車の造営が相次いだことから、1999年の移築時には台座を嵩上げして全高は112.5メートルとなり、同時にイルミネーション部分もリニューアルされ、毎時15分ごとに回転輪を利用して花火を打ち上げるような仕様が追加されたのであるが、それがどんなんなのかは興味がなかったのでさっぱりわからんのであるので、興味のある人はみなとみらいに行ってご確認いただきたいのであるのである。

さらに、夜にはライトアップもされるようになり、四季によってライトアップされる色が変わり、春はグリーン・夏はブルー・秋はゴールド・冬はピンクであるつーことであるので、夏真っ盛りのこの時期はブルーにライトアップつーことであるわけであるが、あたしゃ昼間に行ったので何色なのかはわからないので、これも興味のある人はみなとみらいに行ってご確認いただきたいのはゆーまでもないことであるのである。

尚、移設後の112.5メートルという高さは大阪の天保山大観覧車と同じ高さであるが、同機と本機は建設主や直径・定員も同じで時計の有無を除けばスポークや支柱など外見の構造もほぼ同一の兄弟機となっているつーことであるが、興味のない人には何の意味もないので興味のない人は読み流していただきたいのはいつものことであるのであるううううういかんどんどんなげやりになってるがべつに槍は投げないので安心してもらいたいのである。

さてさて、この動画で大観覧車コスモクロック21の眺望を心ゆくまでお楽しみいただけたと思うので、このへんでお別れの時間であるのである。

みなさん、さいならー。

あきまへんがな。

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2013年8月12日月曜日

山中湖のボート乗り場の鯉



山中湖のアヒルボートならぬスワンボート乗り場桟橋にお集まりの鯉の皆さんであるのである。

最初は気が付かなかったのであるが、桟橋を歩くと鯉の皆さんがぞろぞろとお集まりになってくるのである。

これは、ボート乗り場のお仕事の皆さんが餌付けをしてるせいなのか、観光客が菓子なんかをやるからなのかわからんんが、桟橋を歩く振動で鯉が集まってくるのである。

鯉の皆さんは集まると、餌を食うために水面に顔を出して口をパクパクやってるのである。

でも、あたしは餌をやらないので、集まった鯉の皆さんは、しばらくすると諦めたのか、三々五々解散されたのである。

なにごともこれが生命体の本性であるのであるが、人間もオイシイものがあるところにどどっと集まって、なにもないとどどっと引いて、だーれもいなくなるのである。

まあ、人間のことわざで言えば、金の切れ目が縁の切れ目であるのである。

あれこれキレイ事を言っても、オイシイことがなにもないところに長居は無用であるのはこの世のことわりであるが、慌てるなんとかはもらいが少ないてなことわざもあるように、他の鯉が「なーんだ、なんにもくれねーのかよ、行こ行こ」と去った後に残ってると、もしかしたら菓子の食いかけをもらえることもあるかもしれないのである。

しかし、あたしはお菓子を持ってないので、そんなことを期待して残っていても無駄であるのである。

鯉の人生も人間の人生もつまるところは同じであるわけであるが、鯉の場合は人生ではなく鯉生であるかもしれないのであるがものすごくどーでもいいことであるのはゆーまでもないことであるのである。

そんなら言わなくてもいいじゃないかとゆーご意見もあるのはごもっともであるが、なんか書かないと尺が埋まらないので痛し痒しここが気持ちいいのであるのである。

さすがにおつむのちょーしのいい読者諸兄諸姉の皆さんはこのへんで、あたしが鯉になんの興味もないので、でたらめにキーボードを叩いてるだけだとゆーことに気がついているとは思うが、もしかしたら、この先とんでもない宇宙の深遠をのぞき見る展開を用意してるかもしれないので、諦めずに続きを読んでもらいたいもんであるのである。

でも、飽きたので終わり。

読者が飽きる前に自分が飽きてしまったのである。

残念ながら宇宙の深遠はなかったのである。

意表をつく展開であるのであるが、しまいには誰かに注意されるのである。

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2013年8月9日金曜日

山中湖



山中湖であるのである。

山の中にある湖であるから山中湖であるのかもしれないのであるが、実際にはどーだかわからんのである。

水面の標高が980.5mであるので、そうとう山の上の方にあるので、山上湖でもよかったわけであるが、残念ながら山中湖であるのである。

この日は気温が30度以上であったのであるが、標高の高さによる23~4度という実に爽やかな環境であるせいか、夏休みの中高生が大量にスポーツ合宿していて、歩道のない路肩を縦横無尽に広がって歩いてるので、うっかりしてると轢いてしまうので、山中湖の周辺道路に入ったら、安全運転を心がけないと、子供を轢いて一生にわたって親御さんに恨まれることとなるのである。

山中湖(やまなかこ)は、山梨県南都留郡山中湖村にある淡水湖で、富士五湖のひとつであるのである。

富士五湖の中で最大の面積を持ち、また、前述の通り湖面の標高は富士五湖の中では最も高い980.5mという位置にあり、日本全体でも第3位であるが、逆に水深は富士五湖の中で最も浅い13.3mであるのである。

富士箱根伊豆国立公園に指定されており、「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の構成資産の一部として世界文化遺産にも登録されているのあるのであるのであるのであ~るうううもういやだこんなの。

つーことで、昨今の世界遺産登録による富士山ブームに便乗して、とにもかくにも霊峰富士を写真動画に収めて、神の写真の面目躍如としようと思ったのであるが、これがね、当日は朝から雨模様で、ロケどころか観光すらもどーなるかこーなるかわかったもんじゃない状態でのご出発であるのである。

しかし、あたしは典型的な晴れ男であるのである。

これが、その日がたとえ台風で大雨でも、あたしが遊びに行くと現地はあーら不思議、雨が止んでお日様さえのぞいたりするがこれまでの慣例であるので、もちろん傘も持たずに、予定通り撮影隊はロケ地に向かってご出発の運びとなったのである。

簡単に言うとそーゆータイミングになるつーだけのことであるとは思うが、まあ、神のご意思はあたしにこよなく遊びに行けとご推奨なされているとゆーことかもしれないのである。

ううむ、日本語がどんどん変になるが、まあ、作家としてのプライド矜持自負心をかなぐり捨てて、輝ける日本の明日未来将来のために生涯を掛ける所存であるのである。

文章はさらにいいかげんになってるのであるが、まあ、尺埋めの出まかせで書いたことに食いついてあれこれ掘り下げてもゴミしか出てこないのはわかりきってるので、さっさと先に行くのである。

それで、まあ、行く途中の車中は予想通り雨だったのであるが、道志川温泉、道の駅等で車を停めると雨が止むという摩訶不思議な現象を「あーら、不思議ね不思議ね」とお楽しみになりながら現地山中湖にご到着遊ばしたら、みごとに雨が上がって、ロケ隊は絶好調に撮影に入ったのであるが、さすがに富士山方面はもやっていて、ついに富士山はお出ましにならなかったのである。

それで、まあ、ここまで来て、何も撮らないで帰るとゆーのもなんであるので、ボート乗り場桟橋のアヒルのボートを撮ったのである。

ああ、ちがう、これ、アヒルじゃなくてスワンだ。

どーもすわんなんてね。

うううううううううううううううううううううううううううううううううううううううだめだ。

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2013年8月5日月曜日

川崎大師風鈴市の露店



まあ、あたしは言ってみれば露店マニアであるのである。

神社の祭り、七夕、花火大会、各種イベント、等々、とにかく露店が出てるとテンションが上がるのである。

特にテキ屋さんの露店独特の色合いが、あたしのご幼少のみぎりの神社の祭りのなまめかしいときめきを蘇らせて、脳波はあの頃のアルファ波をこよなく醸しだし、ドーパミンもエンドルフィンも出まくりであるから、そら、たまらんわけである。

露店といっても、まあ、あたしもそれなりのご年齢であるので、今さら、輪投げや、ヨーヨー釣りや、金魚すくいや、射的や、各種ゲームをやるてなこともないので、やっぱりお食事系であるのである。

それで、もちろんこの川崎大師風鈴市の露店でもこれでもかとテンションが上がって、お好み焼きも食いたい、ぷりぷりポテトも食いたい、フランクフルトも食いたい、焼きそばも食いたいたこ焼きも食いたい、じゃがバターも食いたい、なんだかわからんもんも食いたいと、あれこれそれこれ品定めの結果、焼き鳥を2本食ったのである。

焼き鳥2本だけかよつーことで、あまりの情けなさに今後の神の写真の行く末に暗澹たる思いにとらわれた向きもあろうとは思うが、そんなことはお構いなしに着々とクライマックスに向かってよれよれと進行は続行されるわけである。

とにもかくにも、まだ午前中であったせいか、準備中の露店もあって、まあ、この準備中の露店てなものも、なかなかこれせオツな趣が満載で、あたしの心の襞をこちょこちょとくすぐって、けけけと笑ってあらいやんばかんそこはだめよとお楽しみなのである。

あああ、あたしも小説家の端くれとして、もっとまともな文章を書きたいもんであるなあ。

誰が小説家だ。

ちゃんちゃん。

レベルがどんどん下がってない?

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2013年8月3日土曜日

川崎大師仲見世のだるま



川崎大師のだるまである。

まあ、川崎大師の仲見世にはだるま屋さんがたーくさんあるのである。

まあ、だるま屋さんが何軒あるかは数えてこなかったのであるが、まあ、とにかくたーくさんあるのである。

だから、川崎大師の正しいおみやげとしては、とんとこ飴とだるまてなとかもしれないのであるが、まあ、だるまを買うとかさばるので、その後にどこかに回る予定のある人は小さめのを買って、うちに帰って、片方に目を入れて、目標が達成できたら黒々とぐるぐる書き込んで「あー、さすがに川崎大師のだるまはご利益満点であるなあ、これで、おいらの将来も大安定ではありませんか、来年も是非、川崎大師のだるまを買っちゃうもんねー」と大満足していただきいもんであるが、あたしゃ買わないもんねー。

ううむ、どうも、このごろ展開が雑ね。

川崎大師のだるまは越谷だるまてな、埼玉県越谷市で生産されているだるまで、「武州だるま」とも呼ばれるだるまであるのである。

越谷だるまは、江戸時代の享保年間(1716~1736年)に、間久里の「だる吉」という人形師が、従来あった「起き上がり小法師」という玩具に座禅を組んだ達磨大師を描いたのが始まりといわれ、他に比べて「色白」「鼻高」「福福しい」という特徴があり、川崎大師の他に柴又帝釈天など関東一円をはじめ、全国に広く出荷されているのであるのである。

わはは、だる吉であるのである。

だるまだけにだる吉であるのは実にわかりやすいわけであるが、江戸時代にだる吉であるから、まあ、おしゃれっちゃおしゃれかもしれないのである。

これがだる吉でなくるま吉だと意味がわからなくなるのでやっぱりだる吉でよろしいわけであるのである。

そいでもって、越谷市だるまは越谷だるま組合の越谷市の7軒、さらにさいたま市(岩槻区)1軒、春日部市1軒により、年間約40万個のだるまが生産されているそーであるが、そのほとんどが手作業によるそーであるのであるが、あたしの知ったこっちゃないのである。

ううう、めんどくさなって、最後がやっぱり雑になってしまったじゃないかよねえあなた。

しかし、なんである、興味のないネタで尺を埋めるのはこれ、艱難辛苦であるのであるが、まあ、ぐだぐだ言ってるうちに埋まったかもしれないので、このへんでいいかげんにしなさいっ、とツッコミを入れて、ぐだぐだゆーとりますがお時間であるのである。

困ったねどうも。

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2013年7月29日月曜日

川崎大師全国風鈴市



なにしろ、全国風鈴市であるのである。

全国であるから、日本全国各地の風鈴がこれでもかとお集まりになってるのである。

まあ、値段はおおむね3000円前後であるのである。

おおむねであるから、もちろん3000円以下のものもあるし、3000円以上のものもあるのである。

これがあたしの予想に反して大人気で、朝っぱらから京急川崎大師駅でぞーろぞろと大量の人が、川崎大師に向かってお歩きであるのである。

そのお歩きの皆さんにといっしょにあたしもお歩きになって、なにはともあれ川崎大師にお参りして、風鈴市のテントブースが並んでるコーナーに言ったら、大混雑であるのである。

これ、いったい何種類あるのやら、見当もつかないのであるが、まあ、とにかく全国のありとあらゆる風鈴が並んでるてなことはよーくわかるぐらいの量であるのである。

それで、そのテントブースの通路の上に、なんつーのか霧のシャワーが仕掛けてあって、ああ、クールミストシャワーてなネーミングかもしれないのであるが、それのせいで、カメラが危うい感じがして、一旦、ロケを中止したのである。

しかし、この風鈴市の様子をロケしてるプロのカメラマンがでかいカメラを抱えて撮ってたので、まあ、あたしの最近ご愛用の9800円のカメラをプロのカメラといっしょには考えられないのであるが、だいたい大丈夫だろうつー事で神の写真の写真カメラ班も、押し合いへし合いの大混雑の中に突入して、再度、撮影を敢行したわけである。

それで、ぐるりと撮影を終了して、周囲を見回してみると、これが、どなたもカメラを構えていて、風鈴を買うよりも撮影に夢中であるつーことがわかったのである。

これがおにーさんよりも、おねーさん、奥さん、おじさん、おじーさんてな手合いが夢中で写真をお撮りであるのである。

とくに、おじーさんは、でかい、いわゆるデジタル一眼レフを構えて、真剣に写真を撮ってるのである。

どなたもどうみても加齢による老人性白内障真っ盛りのご年齢で、色も形もまともにものごとが見えてるとはとても思えないのであるが、それでも、そんなことには無頓着に高級なカメラとレンズで嬉々として写真をお撮りであるのである。

日本のカメラメーカーを支えてるのは、リタイアして年金お気楽生活のこのおじーさん達であるつーことが実感できる風景であるのである。

カメラから日本企業の販売戦略まで幅広くフォローしたところで、本日もわあわあゆーとりますが、お時間になりましたようで。

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2013年6月20日木曜日

秩父羊山公園の芝桜



これ、5月にロケしてそのあと、思いつきでタイに行ってしまったので、ほったらかしになってしまったのである。

まあ、霊能写真家象師匠としてはやっぱり撮ったもんは使わないと霊能者根性に関わることであるので、時期はずれとゆーよーな罵詈雑言をものともせずにUPするのである。

なんつーのか、昨今の芝桜を植えて客寄せにするてなブームで、それだけ簡易的に豪華な風景ができあがるつーことなのかもしれないのであるが、まあ、テレビ番組でもあちこちの芝桜が取り上げられるので、この羊山公園の芝桜も大きな臨時駐車場に長蛇の列の賑わいであるのである。

まあ、敷地が広大であるので、人数がパラパラのような気がするのであるが、実際にはけっこうな人数であるのである。

それで、時期が早すぎたらしく、まだ咲いてない株もあって、まばらな色合いの部分もあるのであるが、そこはそれプロ写真家としてのメンツにかけて写真にするわけである。

だれがプロ写真家だ。

まー、こーいっちゃなんであるが、あたしゃ基本的に花にはなんの興味もないのであるが、写真家としてこれから華々しくデビューするためには秋山センセーの偉業をご尊敬あそばして、まず花を愛でる心をご愛育なさるのが先決ではなかろうかつーことで、あれこれ花を題材としたわけであるが、ううう、例によっててきとーに書き始めたので終着駅が見えなくなってしまいますだ。

えーと、他になんかゆーことはあったかな。

この羊山公園の一角で秩父物産を販売してる区域があって、そこでいろいろ秩父名産品や秩父名物の食いもんなんかのブースを作って売ってたのであるが、まあ、こーゆー施設では定番であるのである。

まあ、あたしゃ花には興味が無いが、食いもんにはものすごく興味があるので、秩父名物のみそポテトを食ったのであるが、残念ながら写真は削除してしまったので象さんのご飯でもUPはないのである。

うだうだゆーとりますが、本日も時間となりましたので、このへんでおしまいであるのである。

どなたさまも良い1日をお過ごしください。

おいおい、

やる気がぜんぜん見えねーのである。

Camera:RICOH GXR A28mm

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2013年6月10日月曜日

秩父長瀞ライン下りBコース



秩父の長瀞ライン下りであるのである。

まあ、これ、たしか5月ごろであったのであるが、まあ、とにかくUPするわけである。

テレビのニュースなんかでもときどきネタにされるので、まあ、だいたい様子はわかっていたのであるが、とにかく一度は体験してみないことには死んでも死に切れないので、長瀞駅前のチケット売り場でチケットを買って、川べりの船着場の船頭のおにーさんにチケットを渡そうと思ったらば、これが、無いのである。

駅前のチケット売り場から土産物屋の並ぶ商店街を抜けて河原にくる途中で、「あそこんところの電気工事の図面を送りました」なんてわけのわからん間違い電話がかかってきて、それに気を取られているうちに落としたと思われるのである。

どこをどう探してもないので、おにーさんに「チケットを駅前で買ったが見つからない、駅前のチケット売り場のおねーさんに聞いていただきたい」と言う趣旨のご説明を申し上げたら「ああ、いいですよ、見つかったらください」というみごとな客さばきで無事乗れたのである。

まあ、つまり、チケットをなくしてしまうおっちょこちょいがけっこういるつーことかもしれないのであるが、あたしもそのなくしてしまうおっちょこちょいの一人であるつーのが、実になんというか人生の機微をそこはかとなく味わう今日このごろであるのである。

とにもかくにも船に乗れて、長瀞下りBコースの始まりであるが、なんでもAコースの方が上流であるために多少急流で、Bコースは下流であるので多少おだやかな流れであるつーよーなことであるのである。

まあ、穏やかとはいえ、なにしろ川下りであるので、いつどうなるかわからんので、黄色い救命胴衣を着せられて、船頭さんの指示に従って座席にお座りになってロケのスタートであるのである。

乗ってるのはおばさまがほとんどで、日本のレジャー産業はおばさま方に支えられているつーよーな感じがひしひしと伝わってくるのであるが、この時の客がたまたまおばさまだらけだったのかもしれないので、真偽の程はどーだかわからんのはいうまでもないことであるのである。

後ろの船頭さんはいろいろ説明したりしてるのであるが、舵取りである前の船頭さんは真剣で、おばさまの一人かなんか話しかけたら会話をお断りになったのである。

まあ、たしか以前に天竜川の川下りで船が転覆して事故になって何人かお亡くなりになったつーよーなことがあったような記憶があるのであるが、舵取りの船頭さんは乗客の命の舵取りでもあるので真剣にならざるを得ないのはさもありなんとゆーことであるのである。

乗客の命の舵取りなんてえのは、実にうまいねどーも。

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2013年5月29日水曜日

タイ王国霊能紀行その2の③トゥクトゥク



まあ、タイといえばトゥクトゥクである。

まあ、ツクツクでもトクトクでもいいのであるが、プクプクやピクピクではちがうかもしれないのである。

まあ、20年ぐらい前に来たときは、バンコク市内にトゥクトゥクが列をなして走っていたのであるが、昨今はすっかり影が薄くなって、ちらほら観光客がお乗りになってるぐらいであるのである。

この写真の、使ってるんだか使ってないんだか展示用なんだかわからんトゥクトゥクはホテル所有の宿泊客用のものであると思われるのである。

実際にはもう少し小さい2人乗りや4人乗りのトゥクトゥクが道路に溢れていたのである。

その溢れていたトゥトゥクがタクシーに変わってるのである。

だから現在のバンコク市内にはタクシ-が溢れているわけであるのである。

まあ、便利っちゃ便利であるわけであるが、日本人とわかると何をいいだすかわからんタクシー運転手さんもおられるので、お上りさん観光客物見遊山の皆さんはお気をつけいただきたいつーよーな情報もあるわけである。

しかし、そこはそれ、世界各国似たようなもんで、そのようなもんだと思って乗ればいいわけである。

それで、料金等でもめても、タイでは絶対に声を荒げたり、罵倒したりしてはいけませんつーこともよーく考慮して乗らないと行けないつーこともひとこと付け加えておくのである。

ダッシュボードにおてっぽーをお持ちになってる運転手さんも多々おられるので、どんなに腕力に自信があってもおてっぽーで撃たれると敵いませんのである。

しつこい客引きなんかに対しても、攻撃的な態度をとったりすると、集団でぼこられるか、うっかりしてるとおころされになられるので、無視するとゆーのが正しい対処であるのである。

まあ、これ、かぶきちょーの客引きのおにーさんやおじさんに乱暴な口を聞けばあぶないことになるのはどなたもご理解頂けると思うのであるが、その10倍くらいはあぶないことになるので、タイの街なかでは絶対にもめごとを起こしてはいけないのである。

つまり、この手の皆さんはタイの一般の人ではなく、そのよーな皆さんであるのであるつーことをご理解しないと、勘違いして観光客気分で横柄な態度に出てえらいことになりかねないのである。

まあ、そんなことをいうと、一時のにゅーよーくみたいで歩くこともできないように思うが、銀座を歩いていていきなりあぶないことに遭うてなこともないよーに、裏通りや路地の奥やあぶない地域に入り込まなければお気楽にお楽しみいただけるのである。

まあ、もっとあぶないところは、そこをけーさつではないそこを取り締まる皆さんがおられて、意外に安全にお楽しみいただけたりするのであるが、詳細にはご報告できないので、とてもあぶなくて楽しいところがお好きな人はご自身で探索して身の危険安全を自ら感知してお楽しみいただきたいのである。

つーことで、タイの交通事情から詳細にご報告できない事情まで網羅しておとどけいたしましのであるが、お時間になりましたのでこのへんで終わり。

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2013年5月24日金曜日

タイ王国霊能紀行その2の②バンコク・セントラル チットロム(Central Chidlom)デパートのマネキン



セントラルチットロムはバンコクのBTSチットロム駅のすぐそばにある老舗の高級デパートであるのである。

最近は隣のサイアム駅のパラゴンなどの巨大デパートに客を取られて以前ほど客がいないてな話も聞くのであるが、それでも、それなりに賑わっていて、この日はマネキンのパフォーマーがお立ちになったりお座りなったりと、企画も満載であるのである。

まあ、目的はこのデパートにある高級フードコートに昼めしを食いに来たのであるが、1階の入り口を入ったらが人だかりができていたので、とりあえず食いついてロケを敢行したわけである。

おねーさんたちは動かいのがパフォーマンスであるわけであるが、けっこう動いているのである。

まあ、まったく動かないなら、マネキン人形でいいわけであるから、多少動くところに意味があるわけである。

しかし、日本の物価から考えても高額な商品ばかり置いてるタイのデパートにこんなに客がいるつーのは、どーゆーからくりなのかと、タイにお住まいの知人に聞いてみると、タイでは借金が当たり前であるので、車なんかもどんどん月賦で買ってしまうつーことであるのである。

平均的な借金が200万円ぐらいあるてなデータもあるそーであるので、タイ経済は借金でぐるぐる回っているてなことも言えるわけである。

まあ、日本人は貯蓄が基本であるわけであるが、タイの皆さんは借金が基本であるわけである。

ちなみに超零細レンタル企業の我が社は無借金経営が基本であるのである。

まあ、これ、たとえば日本は地域によっては厳寒の真冬にお外で寝泊まりお暮らしになるのは実に困難極まりない苦労を伴うわけで、まあ、うっかりしてると凍え死んでしまうわけであるので、慎重に蓄えを計算して、なんとか家の中で寝泊まりできるようにするのが国民的感情として根付いているわけである。

しかし、タイてなお国は、なにしろ常夏の国であるので、夜も外で寝ていても寒さで命が危ないなんてこともないので、いきおい宿なし浮き草ぐらしでもなんとかなるてなことで、お気楽な国民感情が根付いているつーことかもしれないのである。

そのせいなのかなんなのか、とんでもなく高い輸入関税にも関わらず、バンコク市内にはべんつやびーえむやぽるしぇてな、市内のマンションの大きな一部屋が買えるような高級車がやたらと走っているのであるが、そんなこんなで、家よりも車、みたいな感覚があるのかもしれないのである。

まあ、そうはいっても、お国柄で慣習がいろいろと違うわけであるので、どれが正しいてなことでもないのであるのはゆーまでもないことであるのである。

あたしゃもちろん屋根の下でないと眠れないたちであるので、車よりも家であるのである。

つーことで、マネキンのおねーさんから、タイと日本の国民的生活感情までご推察申し上げる、みごとな展開で、本日の高座はお開きであるのである。

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2013年5月21日火曜日

タイ王国霊能紀行その2の①Bangkok・Soi Langsuan(ランスアン通り)



微笑みの国タイ王国にまたもや大霊能者象師匠が降臨なされたわけであるが、まあ、なんだ、2回めであるので、ネタがありまへん。

今回はバンコクのSoi Langsuan(ランスアン通り)のUrbana Langsuan Hotel(アーバナ ランスアン ホテル)てなホテルにご宿泊であるので、まあ、とにかくそのOoi Langsuanを歩いて見るわけである。

Soi(ソイ)とゆーのは、タイで用いられている通りの名称であるのである。

主要道路をthanon(タノン)と言うのに 対して、その脇道(Side-street)をソイとゆーのである。

このUrbana Hotelを出て右側にSoi Languanを5分ほど歩くとBTS(バンコク スカイ トレイン)のChito Lom(チットロム)駅に突き当たるので、実に便利な立地であるのである。

それで、動画はChito Lomと反対の方向に歩いているのであるが、この突き当りには公園があるのであるが、公園までは行かなかったのである。

通りの周囲を見上げると、高級マンションとオフィスビルが乱立しているのである。


朝はこのオフィスに向かうおねーさんやおにーさんやおじさんやおばさんの皆さんがぞーろぞろ歩いていて、お昼にはオフィスからぞーろぞろでてきて、飲食店ビルに入って、なんかお食べになったり、スタバでお珈琲なんかをお飲みになったり、夕方の5時頃になると、オフィスからぞーろぞろ出てきて、駅の方へ歩いて行くのである。

まあ、それで、今回はタイ移住計画の一環として、マンションの状況をサーチしにきたのであるので、まあ、近所にはスーパーやコンビニもあり、前回うろうろしたバンコク最大の商業地繁華街であるRajadamri(ラジャダムリ地区にも近くて、あたし的には絶好の立地であるわけであるので、「ううむ、ここはいい、天下の大霊能者象師匠のお住いになるお部屋はこの地域以外にない、すぐ部屋を探そうではないか」と心もウキウキあそこもワキワキであるのである。

それで、ホテルのフロントのおねーさんなんかにサーチしてみると、このへんの高層ビルのマンションは、まあ、一番小さなワンルームで月7万バーツ(だいたい23万8千円)ぐらいからで、買うと同様の一番小さなワンルームで700万バーツ(だいたい2380万円)ぐらいからだそーであるので、じゃあ、ふつーの広さの部屋を借りたら月40万円以上かよつーことで、なんだこりゃこりゃ、東京と変わらんがね、つーご感想で、物価のお安いタイで豪華絢爛なご生活というご計画に暗雲が漂って、いきなり心が折れそうになったのであるが、気持ちをぐぐっと立てなおして、もちろんあそこもぐぐっと立てなおしたのである。

それで、ネットでホームページを見てみると、小林さんつー不動産屋さんのページが出てきて、それで、この通りの駅の方にリビングつきで6万バーツ(だいたい20万4千円)てな部屋があったので、「おいおい、なんだよ、広くて安いのもあるじゃありませんか、すぐ見に行ってみましょうね」つーことで疾駆疾走脱兎の如く韋駄天走りで行ってみたら、インド人のおじさんが出てきてやる気もなんにもなさそうなご案内で、古くて暗くて汚くて住めたもんじゃねーのである。

ご滞在のホテルがBreakfast buffet付きで5千バーツ(だいたい1万7千円)で2ベッドルームでキッチン、リビングつき、全自動洗濯機付きてな、いわゆるコンドミニアムで、ものすごく綺麗で快適で、どうもこのイメージがあるので、この程度の部屋は借りたいわけであるので、ううう、しかし月に40万だと、年に480万って、いかに金満霊能者とはいえ単なる無駄遣いじゃねーのかね。

かくのごとく、日本の10分の1の生活費でお気楽に人生をご堪能なさるとゆー当初の目論見は脆くも崩れ去って、「ああ、人生つーものはカネが無くてはどーにもこーにもお楽しみになれないもんであるなあ」と心から守銭奴になる決心を固める今日このごろであるのである。

まあ、こんなとこかな。

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2013年5月4日土曜日

伊勢神宮(内宮)門前町のおはらい町とおかげ横丁



おはらい町は三重県伊勢市に鎮座する伊勢神宮皇大神宮(内宮)の入り口の鳥居前にある門前町である。

おはらい町は伊勢参宮街道の終点宇治橋手前の、伊勢市宇治今在家町から宇治中之切町を経て宇治浦田一丁目に至る約800mの伊勢おはらい町通り(いせおはらいまちどおり)の両側に広がる町であるのであるが、まあ、なんともかんとも、動画をごらんになるとお分かりになる通り、延々広がる、まれにみる町おこし大成功の典型を見ることができるつーぐらいの壮観な町並みであるのである。

伊勢参宮街道に沿って、宇治・山田で昭和中期以前は一般的であった、入母屋・切妻・妻入り様式の得も言われる昔なつかしの木造建築が立ち並び、伊勢市の代表的な観光地であるのである。

また、おはらい町とおかげ横丁は混同されるケースもあるが、おはらい町の中央付近におかげ横丁があるのである。

これがまた、これでもかと作り込んだ町並みで、観光客はご満悦でご飲食遊ばしたりしてるのである。

宇治今在家町から赤福本店前(中橋西詰)までの区間は三重県道に(三重県道715号館町通線)、赤福本店前から宇治浦田一丁目までは伊勢市道に(伊勢市道宇治新橋線)指定されているのであるが、まあ、そんなことはともかく、その赤福で赤福を買って赤福を食ったのはいうまでもないことであるのである。

沿道には伊勢うどんや手こね寿司などの郷土料理を供する飲食店、真珠や伊勢茶などを販売する土産物店が軒を連ねているのであるが、もちろん霊能グルメレポーターとしても高名な象師匠としての仕事柄、即座に伊勢うどんと手こね寿司を食ったのはいうまでもないことでるのである。

中には民家や郵便局・銀行もあるが、ほぼすべての建物が切妻・入母屋・妻入の木造建築で統一されているので、ううむ、よーくできてるなーとゆーご感想をお持ちになるのはあたしだけではないと思うが、もしかすると町おこし研究家のあたしだけかもしれないのである。

これらの建物の多くは1970年代以降に民間主導で進められたまちづくりの結果、景観維持を目的に整備されたものであるつーことであるが、この伊勢神宮の門前町として栄えたおはらい町は、江戸時代にはお伊勢参りつーことで参宮客が年間200 - 400万人も押し寄せた庶民の憧れの地であったのであるつーことであるのである。

当時、日本全国から参宮客を集めた御師(おし)と呼ばれる人々がこの通りに館を連ね、客人をお祓いや神楽でもてなしたことから、いつしか「おはらい町」と呼ばれるようになったとゆーことであるので、この町の皆さんはその御師さんの末裔の皆さんであるかもしれないのであるが、直接お伺いしたわけではないので定かではないのである。

伊勢おはらい町会議は1980年代から活動を始めたまちづくり組織で、おはらい町を単なる観光地ではなく、実際に住民が生活する町であることをコンセプトとしているそーであるが、なにしろ、これだけ統一感を持って観光地としての街づくりを成功させたわけであるから、そらたいしたもんだと言わなければならないのは無論のことであるのである。

てなことで、まあ、おはらい町通りをすたこら歩いて動画をお撮り申し上げたわけであるが、これがね行けども行けども尽きぬ町並みで、いったい何キロあるんだと思ったのであるが、前述のとおりだいたい800mmだそーであるのである。

この日は日曜でもなく土曜でもなく祝日でもなく休日でもなかったのであるが、これが、ものすごい人並みで大賑わいであるのである。

伊勢神宮の境内よりも賑わってるのは明らかであるのは、これ、神宮の境内の各社を参拝するときはお参りをすませるとさっさと次へ行ってしまって、参拝をすませると座るところもないのでとっとと外にお出になってしまうため滞在時間が短いわけであるが、こちらは土産物屋と飲食店があって、見るもの買うもの食うものが満載で、滞在時間が比較にならないぐらい長くて、観光客で大混雑大賑わいであるわけである。

まあ、いわば地の果てみたいな立地にあるこの町をここまで大観光地にしたのは、神社本庁御本家伊勢神宮の神気神威による集客力もさることながら、最近のパワースポットブームで、本来のお年寄りのお楽しみに加えておにーちゃんおねーちゃんがごちゃまんと集合してるのがさらに大賑わいの原因であるのは否めないところであるので、メディアのでっちあげの力というものは今も昔も人心に多大なる影響を与えてこの世を動かしているのが見てとれるわけであるので、メディアは神の一柱でもあるわけであるのである。

うまいねどーも。

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2013年4月17日水曜日

鰯の天日干し



鰯である。

いわしと読むのである。

魚に弱いと書いていわしであるのである。

さらにいわしの天日干しであるのである。

干物は魚介類の水分を乾燥によって減らすことで貯蔵可能なように加工した食品であるが、干物の乾燥方法は天日乾燥と人工乾燥に大別されるのである。

干物通の方はご存知の通り天日乾燥である天日干しと人工乾燥である電気干しではぜんぜん味がちがうのである。

干物は干すことで水分含有量を減らすと共に表面に膜を作ることにより、保存性が高まり、独特の食感とそれに伴う食味が形成され、生魚と比べて保存性があることから全国の海辺などでも土産品としてよく売られているのであるが、これは伊勢の海辺の土産物屋さんの店頭の光景であるのである。

干物は魚が豊富に捕れる地域で行われる加工法であり、日本のみならず世界各国で作られているのであるが、たとえばバカラオは塩鱈(たら)の干物で、タラの捕獲地であるスペイン・ポルトガル・イタリア・フランスや中南米諸国を中心に食されているのである。

和食においては、ご飯、味噌汁、漬物、卵焼き、海苔と並んで朝食には欠かせない一品であるつーよーな、ごくごく当たり前のどーでもいいようなこともひとこと付け加えておくのである。

干物は、素材を乾燥させる風が重要であり、適度な海風などによる湿度や温度が必要とされるのであるが、そんなことを言われても、干物を作る気のない人にはどーでもいいのはいうまでもないことであるのであるがこれもひとこと付け加えておくのである。

また、夏場は日光に当てると煮立ってしまうため日陰干しをする場合もあるのであるつーことであるが、ほほう、煮立ってしまうというのは初耳であるのであるが、真夏の自動車のボンネットで目玉焼きができるわけであるから、まあ、そらそうかもしれないのである。

天日干しは、1時間程度干すだけであとは日影にて干す事が多いのであるつーことも初耳であるのであるなあ。

この動画の写真では天日で干しているわけであるが、実際の現場ではその時間も短時間で、干したあと1時間程度で直ぐに販売される場合もあるのであるということであるので、この鰯の皆さんも1時間後にはパックされてお店に並ぶのかもしれないわけである。

天日乾燥の際の虫付きを防ぎ乾燥を早めるため、最近では海辺の土産物屋などの店頭などで、つり下げた魚を回転させる電動式の干し台に鰯やさんまをぶら下げてぐるぐる回ってる光景を見かけるのである。

そうはいっても工場など大量生産などを行う所では人工乾燥機が使われており、生干しでは水分を保つため低温の乾燥機を使うこともあるのであるが、前述のとおり味という面では天日干しとは比較にならないのはやはり自然の力はすごとしかいいようもないてなうううだめだどーすんだこれ。

主に家庭での干物作りには青色などのネットで中が数段に仕切られている干物ネット(ドライバスケット)が利用されるのであるが、これから干物作りを趣味にしようと決心した人は干物ネットはネットでも買えるのである。

もちろん干物ネットとインターネットをかけたオヤジギャグであるわけではないのであるということもひとこと付け加えておくのである。

内臓を取らずに生干ししたものでこの鰯など小型の魚はそのまま干して「丸干し」として食用に供することもあり、代表例としてめざしがあるのであるが、いわしのめざしはDHAやEPAなどが豊富に含まれ、日本人に不足がちなカルシウムも豊富であるので、健康食品の代表選手とゆーこともできるのである。

干物は干し方によって、吊り干し、張り干し、糸貫干し、串干しなどの種類に分けられるのである。

しかし、そんなに干し方があっても、まったく干す気がない人には勝手に干してほしいとゆー感想になるわけである。

しかし、人間つーものはいつ気が変わって干物を作りたくなるかわかったもんではないので、知っておくに越したことはないのであるが、やっぱりなんの役にも立たないかもしれないのであるがいったい何をどーしたいんだこれは。

これ以上ドツボにはまって出られなくなるのかどーなのかさすがに自分でも心配になってきたのでこのへんで勘弁してあげようじゃありませんか。

だからなんなんだよこれは。

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2013年3月24日日曜日

佃島



月島にもんじゃ焼きを食いに来たついでに、佃島界隈を散策であるのである。

佃島とは東京都中央区南東部、隅田(すみだ)川左岸にある旧地区名であるのである。

現在は佃1丁目が正式名で、現在の佃2丁目旧石川島にあたるのであるのである。

佃島は隅田川が晴海(はるみ)運河とよぶ支流と分かれる河口の三角州からなる島であったが、その後の埋立てで、北の石川島、南の月島と地続きになったのであるのである。

この地はかつては名もなき小島であったつーことであるが、江戸初期、かの徳川家康との縁故によって、摂津(大阪府)西成郡佃村の名主の孫右衛門(まごえもん)てなお人が漁夫30余名を連れて移住し、郷里の名である佃を島名としたのであるつーよーなことであるのであるが、あたしが見たわけではないのでもちろん聞きかじりであるのである。

将軍家献上のシラウオや諸侯に納めた魚類の残りの雑魚(ざこ)を味つけして煮つめたのがお馴染みの佃煮で、江戸名物として現在に至っているつーことであるのである。

それで、まあ、あたしは子供の頃から佃島には佃煮屋が棟を並べて賑わってるのかと思っていたのであるが、それがすっからかんで、どこに佃煮屋があるのかもわからないてな風景であるのである。

佃島といえば、江戸の下町情緒を残した風情風景の町並みという印象があるわけであるが、これが、月島同様にどんどん近代的な高層マンションが立ち並んで、どこに下町情緒があるのかてな悲しい状況が目の前に展開されて、あたしゃ心がこよなくびっくりねであるのである。

まあ、それでも、隅田川からの引き込みには釣り船が数隻係留してあり、船宿てな看板もあったりして、もしかするとこれが情報喧伝されている今も残る江戸の下町情緒であるのかもしれないということを理解したのである。

もちろん写真は下町情緒中心であるのである。

まあ、それで、その残り少ない下町情緒と高層マンションの間をうろうろこれでもかと歩きまわって佃煮屋を探しても見つからないのである。

それで、通りがかった様子のいい粋なおばさまに「佃煮屋が並んでるのはどのへんでしょうか?」と聞いたら「あっちの方ですよ」というので、指差す方角に怒涛の進軍で歩を進めてその付近にご到着遊ばしたらば、佃煮丸久、天安本店、佃源田中屋てな3軒の佃煮屋さんがあるだけであるのである。

これも残り少ない佃島の佃煮屋であるのか、最初からこの3軒であるのかは定かで無いのであるが、まあ、とにかく、おみやげの佃煮を買いましょうとゆーことで、ア・タ・シ的にはいちばんそれらしい雰囲気の天安本店でアミとイカとオカカと昆布とエビと雑魚の佃煮の詰め合わせを買ったのであるが、写真が包装紙のビニールの反射でへっぽこになってしまったのである。



つーことで大変美味しゅうございましたのである。

象さんのご飯かよ。

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2013年3月21日木曜日

月島西中通り商店街



東京都中央区の月島(つきしま)である。

いきなり思いつきでもんじゃ焼きが食いたくなって、東京メトロに乗ってわざわざ月島までお越しになったのである。

これ、おそらくなんかの旅番組でタレントが月島のもんじゃを食ってたのが脳裏にあって、いきなり食いたくなったんだろうと思うのであるが、あたしの思いつきはだいたい仕事をしながらつけっぱなしのテレビからの影響であるのである。

月島は中央区沿岸部、月島1号地にあたり、月島2・3号地は勝どき、月島4号地は晴海にあたり、現在は月島の町域外になるつーことであるのである。

1892年(明治25年)の「東京湾澪浚(みおさらい)計画」てな計画に基づき、東京湾から浚渫(しゅんせつ)した土砂を利用して埋め立てられ、1号地(現 月島)として佃島から先の砂州を埋め立て、続いて27年に2号地(現 勝どき)、29年に新佃島(現 佃2 ・ 3丁目)が完成したつーよーなことであるのである。

埋立当時の月島や新佃島周辺は殖産興国という国策に沿い重工業地帯とされ、隣接した石川島造船所に関連した鉄工所が多く造られ、工場、商店が多かったつーことで、下町の印象が強かったのであるが、実際に行ってみると現在ではあちこちに高層マンションが立ち並び、下町の風景はどんどん過去のものとなっているてな感じであるのである。

月島の地名はかつて東京湾内にあった月の岬という月見の名所から名付けられたてなことであるが、もちろんそれが現在の月島のどこであるのかは定かでないのである。

ご存知の通り、月島もんじゃてなことで、月島はもんじゃ焼きが有名であるのである。

東京メトロ月島駅の7番出口から出てすぐの月島西仲通り商店街には70軒以上のもんじゃ焼きの看板やのれんを出した店が軒を連ねているのであるのである。

もうこれがびっくりするような、よくできた長い商店街で、まあ、行けども行けどももんじゃ焼きの店が並んでいるのである。

「ううむ、今日は休日つーこともあると思うが商店街の道路は歩行者天国になってるし、なかなか商店街各振興会の皆さんの息が合ってうまくできてるではないか、けっこうけっこう、町おこしはこーでなくてはいけませんよ」

てな、まったくの思いつきで来たわりには上から目線であれこれあら探しをしながらあちこちうろうろして、善光寺別院月島開運観音堂にお参りしてお礼よいしょの言の葉をこれでもかと咆哮して、通りがかりの店でもんじゃを食ってビールを飲んで、もんじゃを食ったら胃が刺激されてさらに腹がへったので帰りにでかいメロンパンを買って食ったのである。

まあ、時は移り人は集まり流れ街は変わり時代は休みなく変遷するわけであるが、あたしはその時間の中にほんの一瞬に存在する閃光であるのである。

いや、なんか書かないと尺が埋まらんから。

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2013年3月19日火曜日

東伏見稲荷神社の狐



神の写真である。

東伏見稲荷神社の狐であるのである。

東伏見稲荷神社(ひがしふしみいなりじんじゃ)は東京都西東京市に鎮座する神社であるのである。

京都の伏見稲荷大社の分霊を勧請して昭和4年(1929年)に創建されたのであるのである。

主祭神として伏見稲荷大社の祭神の中から、宇迦御魂大神、佐田彦大神、大宮能売大神の三柱を勧請し、この三座を「東伏見稲荷大神」と総称しているのであるのである。

稲荷神(いなりのかみ、いなりしん)は、日本における神の1つで、稲荷大明神(いなりだいみょうじん)ともいい、お稲荷様・お稲荷さんとも呼ばれるのである。

稲荷神社の総本社は伏見稲荷大社とされており、元々は京都一帯の豪族・秦氏の氏神で、現存する旧社家は大西家であるつーことであるのである。

稲荷神(稲荷大神、稲荷大明神)は、山城国稲荷山(伊奈利山)、すなわち現在の伏見稲荷大社に鎮座する神で、伏見稲荷大社から勧請されて全国の稲荷神社などで祀られる食物神・農業神・殖産興業神・商業神・屋敷神であるのである。

また神仏習合思想においては仏教における荼枳尼天と同一視され、あたしの祟り神兼守り神である豊川稲荷の妙厳寺(みょうごんじ)を代表とする仏教寺院でも祀られるのである。

それで、この東伏見稲荷神社の小塚参拝道には無数の赤い鳥居があり、無数の赤い前掛けをした狐がいるのである。

行けども行けども赤い鳥居と赤い前掛けの狐がいるのである。

狐は古来より日本人にとって神聖視されてきたのである。

それは、狐が日本人の主食としての米を食い荒らすネズミを食う存在として神聖化されたことによるつー説があるのであるが、これは蛇の神聖視も同様であるのである。

秦伊呂巨(具)(はたのいろこ(ぐ))が和銅4年(711年)稲荷山三ケ峰の平らな処に稲荷神を奉鎮し、山城盆地を中心にして神威赫々たる大神社を建てたことにより、最初の稲荷神が登場するのである。 

東伏見稲荷の主祭神の一柱でもある宇迦之御魂神は別名「御饌津神」(みけつのかみ)と言うのである。

狐の古名を「けつ」と言い、御饌津神を「三狐神」と解して、狐は稲荷神の使い、あるいは眷属に収まったのである。 

時代が下ると、稲荷狐は命婦の格(朝廷の屋敷の出入りが可能となる格。)を受け、命婦神あるいは白狐神として上下社に祀られるようになったつーことであるのである。 

江戸時代に入り、稲荷が商売の神と公認され、大衆の人気を集めると共に、稲荷狐が稲荷神という誤解が一般に広がったつーよーなことであるのである。

またこの頃から稲荷神社の数が急激に増え、流行神(はやりがみ)と呼ばれる時もあった。

また仏教の荼枳尼天(だきにてん)は、日本では狐に乗るとされ、稲荷神と習合されるようになったのである。

稲荷神社に祀られている狐の多くは白狐(びゃっこ)であるのである。

稲荷神社の前には狛犬の代わりに宝玉をくわえた狐の像が置かれる例が多いのである。

東伏見稲荷神社の場合は左の狐が鍵をくわえているのであるが、伏見稲荷大社発行の「稲荷の信仰」の「玉鍵の信仰」という一項によれば、玉は稲荷神の霊徳の象徴で、鍵は「そのみたまを、身につけようとする願望の象です」と書かれているつーことであるのであるが、実際には前述のように狐が倉に収めた米を食い荒らすネズミを食うことから転じて、宝である米を守る倉の鍵を持つ守り神てな意味あいであると解釈するのが妥当であるつーのがあたしの神からのお告げであるのである。

まあ、何にしても狛犬ではなく狛狐かもしれないのであるが、呼び名については定かではないのである。

他の祭神とは違い稲荷神には神酒・赤飯の他に稲荷寿司や稲荷寿司に使用される油揚げ(狐の好物ともされるが、狐は肉食であり油揚げが好物なわけではない)が供えられ、ここから油揚げを使った料理を稲荷とも称するようになったつーことであるのである。

つーことで、小塚参拝道の狐の皆さんをこれでもかと霊写して、そのみたまをあたしの体内に呼び込めば、あたしの波動はこよなく至高の彼方天上に駆け上がり稲荷大神の身元足元に顔をひれ伏す仕儀と相成るわけである。

意味がわからない?

神のお告げであるから、意味なんか考えたらバチが当たるのである。

稲荷は祟り神でもあるのである。

あたしゃ豊川稲荷の神罰でとんでもない目にあったので、あまりいじると怖いので当たらず障らずでこのへんで退散するのである。

某霊能者と言い張るぱーの人に「あんたは霊障にこよなく強いやおまへんか」と喝破された天下の大霊能香具師祈祷師象師匠も稲荷神の祟りの威力にはまったく敵わないのであるから、あんたらシロートはんが舐めたりすると命にかかわる大事にならんともかぎらへんのは言うまでもないことおまえへんかであるのである。

怖いでんなー、おっとろしでんなー。

ううう、頭が痛くなってきた。

ああ、珈琲が切れたのね。

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2013年3月16日土曜日

東京駅



東京駅であるのである。

東京駅は、東京都千代田区丸の内一丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)・東海旅客鉄道(JR東海)・東京地下鉄(東京メトロ)の駅であるのである。

ご存知のとおり、赤レンガ駅舎が復原された東京駅は2012年10月1日に全面再開業したのであるのである。

また、復原工事に伴って2006年(平成18年)4月から営業を休止していた駅舎内の「東京ステーションギャラリー」(東日本鉄道文化財団運営)も全面再開業と同日に拡大再開業し、翌々日の3日には「東京ステーションホテル」も規模を拡大して再開業したのであるから一度はお泊りしてみたいもんであるのであるが、あたしゃ東京にお住まいであるのでおそらく一生お泊りはしないのである。

東京駅はその名のとおり東京の表玄関とも言うべきターミナル駅で、プラットホームの数は日本一多く、在来線が地上5面10線と地下4面8線の合計9面18線、新幹線が地上5面10線、地下鉄は地下1面2線を有しており、面積は東京ドーム約3.6個分に相当する巨大駅であるのであるのである。

元々の赤レンガ造りの丸の内口駅舎は、設計の頑丈さから「辰野堅固」と呼ばれた辰野金吾らが設計したもので、1914年に竣工、2003年に国の重要文化財に指定され、「関東の駅百選」認定駅でもあるつーことであるのであるが、日本で百選ならともかく、関東で百選は多すぎるんじゃなかろうかと思うのはあたしだけかねと思うが大きなお世話であるのはいうまでもないことであるのである。

かつての丸の内側の赤レンガ本駅舎は1945年5月25日の東京大空襲によりその多くが破壊焼失したため、その後応急処置的に修復され、そのまま60数年を経過したのであるが、その後あれこれの経緯を経て、1988年に政府は学識者の委員会による東京駅周辺地区再開発構想を取りまとめ、JR東日本などが主体となって、赤レンガ駅舎の駅舎を本来の姿に近い形態に復原するなどを内容とした当駅周辺の大規模な再開発事業が行われることとなったつーよーなことであるのである。

その皮切りとして2007年3月に日本橋口に「サピアタワー」てなお名前の超高層ビルが竣工し、これと同時に一連の再開発地区が「Tokyo Station City(東京ステーションシティ)」と命名され、「東京駅が、街になる。」てなキャッチコピーが採用され、キャッチフレーズとなったのである。

2010年3月28日には、駅改札内1階「South Court(サウスコート)」にあったエキナカ商業施設の「Dila東京メディアコート」の跡地に、JR東日本ステーションリテイリングが運営する「エキュート東京」がオープンし、4月12日には赤レンガ駅舎から皇居まで一直線に続く行幸通りが再整備された上で開通したのであるのである。

さらに同年12月4日には、駅改札内1階「North Court(ノースコート)」にあったエキナカ商業施設の「Dila東京ダイニングコート」の跡地に、鉄道会館が運営する「グランスタ ダイニング」がオープンしたつーよーな経過であるのである。

てなことで、あたしは東京に住んでいながら、いわゆる灯台下暗しつーのが正しいのかどーかはなんであるが、まあ、とにかく復元されてからの東京駅に行ったことがなかったので、物見遊山観光に行ってみたわけである。

まあ、この東京駅のエキナカ商業施設をテレビで取り上げると、以前とは一変した巨大ショッピングモールのような趣であったので、この横長の赤レンガの建物の全部が売り場やレストランかと思ったら、2階以上の部分はほとんどが東京ステーションホテルであるのである。

東京駅改装後に営業を再開した東京ステーションホテルは休館前に約50室だった客室が150室と3倍に増え、ラグジュアリーホテルとして質も大きく向上した。改装された丸の内駅舎43,000平方メートルのうちホテルは20,800平方メートルと丸ノ内駅舎の半分近くを占め、駅舎の三階部分の大半とと四階の一部はほとんどがホテルの客室で、2階にも客室の一部、1階と地下にはホテル宴会場が入っているつーよーな大ホテルになっているのである。

それで、実際に行ってみたらば、赤レンガの東京駅の外観はほとんどが東京ステーションホテルであって、巨大ショッピングモールではないつーことをよーくご理解遊ばしたわけである。

テレビの映像てなものはそのカメラのカット割りアングルに入る部分以外は映らないので、全体の様子がわかるかつーとそうでもないつーことが改めて認識認知把握なされるわけである。

それで、エキナカ改札内の商業施設は1階のかつてのノースコートやサウスコートやセントラルストリートや京葉ストリートや地下1階のグランスタてなことでこじんまりとしたコーナーを作ってあるだけで、想像とはだいぶ違っていて、あららんと思ったのであるが、考えてみれば基本があくまでも鉄道の駅であるから当たり前っちゃ当たり前であるのである。

しかし、エキナカ改札外も含めればTokyo Station Cityつーことでグラングルメだの大丸であるグランドトウキョウノースタワーだのグランドトウキョウサウスタワーだの前述のサピアタワーだのてな商業施設があちこちにあるのである。

まあ、ショッピング好きでお暇な人はそうとうに楽しめるわけであるが、あたしゃショッピング好きでもないし、そんなにお暇でもないので、入場券をお買いになってエキナカ改札内を中心にご観光ご見学ご観賞遊ばしたたわけである。

まあ、動画冒頭で新丸の内ビル前の横断歩道から東京駅まで歩いてる間に終始カチカチ音がしてるのは、動画を撮影したスマホにつけたストラップの金属部分が当たってる音であるのであって、べつに東京駅周辺の地縛霊がスマホにお憑きになったわけではないのはいうまでもないことであるのであるということを一応解説しておくのであるが、これを蛇足といわずして何というのかあたしにも何が何してなんとやらであるのである。

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2013年3月11日月曜日

東京宝塚劇場の赤い絨毯



東京宝塚劇場(とうきょう たからづか げきじょう)であるのである。

東京宝塚劇場は、東京都千代田区有楽町にある東京宝塚ビルの1~6階部分にある劇場で、ご存知のとおり兵庫県宝塚市に本拠地を置く宝塚歌劇団の東京での拠点本拠地つーことであるのである。

現在の劇場の全身である旧劇場は、関東大震災の復興期におけるモダニズム建築の傑作のひとつに数えられていたが、老朽化のため1997年12月29日に一旦閉場し、翌1998年1月から建替え工事を開始、2001年1月1日に現在の東京宝塚劇場として新築リニューアルオープンしたのであるつーことであるのである。

2011年3月3日、2001年1月1日のリニューアルオープン以来の来場者数が1000万人を達成し、記念セレモニーが執り行われた。リニューアルオープンから10年間の通算公演回数は約4800回、通算客席稼働率は100%以上とい大繁盛の営業成績となっているつーことであるのであるが現在の稼働率がどうなのかは定かではないのである。

建替え前の旧劇場は東宝直営で、商業演劇、歌手芝居、ミュージカル等、東宝演劇の中心地として機能しており、本来メインとなる宝塚歌劇は年数回(改築前数年間は年7ヵ月)の公演だったのである。

ご記憶の方がおられるかどうかはわからんのであるが、旧劇場は956、57、59、61~72年はNHK紅白歌合戦の会場としても使用され、またマリオ・デル=モナコとティート・ゴッビの共演で知られる第2回NHKイタリア歌劇団での『オテロ』の公演もここで行われたのであるつーことであるが、タカラヅカに興味のない向きにはなんのこっちゃと思われる人もおられるのはいたしかたのないことであるのである。

なお、旧劇場の五階の小劇場では演芸の「東宝名人会」が常時催され、戦後に東宝演芸場と改称され、選りすぐられた寄席芸人を一堂に揃えた東京演芸界の殿堂であったのであるが、1980年8月に閉鎖され、代わりに再開発による有楽町の日本劇場の解体に伴い、日劇ミュージックホールが移転したこともあったのであるのである。

以上は、旧東京宝塚劇場の話であるので、現在の劇場に行ってもまことに残念ながら日劇ミュージックホールのレヴューはやってないのである。

建替え後、東宝は大家の立場に回り、阪急電鉄に賃貸され名実共に「東京における宝塚歌劇団の専用劇場」として再出発を図ることとなり、宝塚歌劇団の公演を目的としているため、舞台のサイズ、設備等のシステムは、宝塚大劇場(兵庫県宝塚市)と同等になっているのである。

ちなみに客席数ではこちらが約500席少くなっているのであるのである。

改築に当たり、支配人には元花組トップスターの甲にしきこと小川甲子が起用され、宝塚大劇場・東京宝塚劇場ともにその管理・運営・製作は、阪急電鉄より分社化した宝塚舞台が行っているのであるのであるつーことであるのである。

宝塚歌劇団は1914年に初の公演を行って以来、今日も人気を集める未婚の女性だけで構成された歌劇団であり、現在は花(はな)・月(つき)・雪(ゆき)・星(ほし)・宙(そら)の5組と、いずれの組にも所属しない専科に分かれているのであるが、この日の公演は星組だったのか月組だったのかさっぱり覚えていないのである。

それじゃ何しにいったのかつーと、まあ、この世のものはできうる限り一度は見るという象源流人生コンセプトにのっとり、まだタカラヅカなるものをテレビ番組では見たことがあるが、生舞台公演を見たことがなかったからであるのだる。

宝塚歌劇団は創設の当初から「老若男女誰もが楽しめる国民劇」を目指し、日本で初めてレヴューを上演した劇団として、一躍有名になったのである。

つまりレヴューという用語が日本に敷衍したのは、1913年に発足した宝塚少女歌劇団(現・宝塚歌劇団)がグランド・レヴュウの名のもとに歌や踊りを演じたのが起源であるわけであるのである。

現在も、健全かつどの世代の人が見ても楽しめる演目を中心に、芝居(ミュージカル)やレヴューを上演し続けており、ジャンルは古今東西を問わず、歴史劇、ファンタジー、そしてSFまで多岐にわたるのであるのである。

まあ、つーよーなことであるのが、とにもかくにも、タカラヅカであるのである。

タカラヅカといえばあたしみたいな門外漢にはなんといっても池田センセーのベルバラ、アンドレ、オスカルであるが、本日はベルバラではないのである。

じゃあ、なんの公演だと言われても、前述のとおり覚えてないのである。

えーと、大昔のヨーロッパのどこかの国の旅芝居の役者と宮廷のお姫様と王子様が出てきて学芸会みたいなお芝居を見せられて死にそうになったのは覚えているのであるが、ううう、ストーリーも覚えてないのである。

そんなことでいいのかと言われても覚えてないんだからしょーがねーじゃんと居直るわけである。

それで、もちろん最後までご鑑賞なさって、夕食晩餐の運びとなって、外に出たら、1月真冬の寒風吹きすさぶ入り口ファサードの周囲にすごい数の女性の皆さんが黒山の人だかりであるのである。

これ、つまり出待ちであるのであるが、あたしは腹がへってたので出待ちはご遠慮申し上げてメシ食いに行ったのである。

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