気功師象師匠の目に映る人生の日々である。人生は旅である。旅は癒やしである。癒やしは神である。癒やしである神のいる風景を求めて現世この世を徘徊するわけである。徘徊かよ。
2013年12月2日月曜日
岡倉天心記念公園
東京都台東区にある某商店街に物見遊山に来て、トイレを探して路地をうろうろしてたら、岡倉天心の旧居・日本美術院跡地に造られた岡倉天心記念公園てな名所に出くわしたのである。
まあ、この世浮世はすべからく縁であるのが心から実感できるわけであるが、あたしもあなたも縁で結ばれた縁ある間柄であるのであるよおまいさん。
この公園には、岡倉天心廟六角堂があり、その内部には岡倉天心坐像が安置されているのである。
岡倉天心(おかくら てんしん、1863年2月14日(文久2年12月26日)ー1913年(大正2年)9月2日)は、日本の思想家、文人であるのである。
本名は岡倉覚三(かくぞう)、幼名は角蔵(かくぞう)である。
岡倉天心の父・岡倉勘右衛門は福井藩の下級藩士であったが、藩命で武士の身分を捨て、福井藩が横浜に開いた商館「石川屋」(現・横浜開港記念会館)てな貿易商人となり、その商店の角倉で生まれたことから、天心は当初「角蔵」と名付けられたつーことでるのである。
そのせいなのかどーなのか、廟が六角堂であるが、トイレも六角形であるのである。
さらに水飲み場も六角形で、足元を見ると敷石も六角形で、石碑も六角形で、ベンチも六角形であるのである。
おいおいだじゃれかよと設計者の意図を図りかねる造りであるが、まあ、そこはそれそんなことを言うのは子供であるので、あたしみたいな立派なオトナは心に思っても口には出さず、神妙な面持ちで廟に深く二礼して元気よくパンパンとかしわ手を打って、「ああ、しまった、ここは神社ではないからかしわ手はいかん」と気がついたときには時遅し、誰かに見られたかしらんとあたりを睥睨するも幸運な事に誰もいなかったので一安心であるのである。
岡倉天心は東京美術学校(現・東京藝術大学)の設立に大きく関わり、また日本美術院を創設したのであるのである。
まあ、本人は文人つーことであるので、画家でもなく彫刻家でもないわけであるが、近代日本における美学研究の開拓者で、英文による著作での美術史、美術評論家としての活動、美術家の養成といった多岐に亘る啓蒙活動を行い、明治以降に於ける日本美術概念の成立に貢献したつーことであるのである。
まあ、とにもかくにもあたしも絵描きの端くれであるので、美学の啓蒙家の薫陶を受けんと廟の前でしばし佇み、耳を澄ませたのであるが、廟からは何も聞こえてこなかったのである。
これで、もし声が聞こえてきたら、もちろん病院に直行しなければならないのである。
Camera:LUMIX DMC-FH6
写真でポン