気功師象師匠の目に映る人生の日々である。人生は旅である。旅は癒やしである。癒やしは神である。癒やしである神のいる風景を求めて現世この世を徘徊するわけである。徘徊かよ。
2011年8月8日月曜日
西伊豆小土肥
戸田(へだ)から海岸線を通って土肥(とい)の町に着いて、そこから右に折れると小土肥(おどい)であるのである。
見覚えのある路地を入って、小土肥浜の海岸のトイレの前に出たのであるが、記憶にあるトイレとは違うのである。
外壁にタイルなんか貼ったりして、やたらと綺麗でオシャレになってるですよ、ううむ。
その頃はコンクリート打ちっぱなしの素朴なトイレだったのである。
なんだか、その向こうに新しいホテルらしき建物も建っていて、東屋やベンチなんかもあったりして、瀟洒な佇(たたず)まいであるのである。
ううむ、西伊豆遊歩道なんて看板も立ってるのである。
もちろん、こんなもんはなかったのである。
以前に来たときは、この小土肥の浜で泳いで、いつも夏の終わりに来るので海の家もなんにもないので、このトイレの手洗いの水を拝借してシャワー替わりにしてたのである。
そんなこんなでものすごく思い出のあるトイレであるのであるが、こんなに綺麗に整備されてはその面影はまったくないじゃありませんか。
外にはりっぱな足の洗い場まであるのである。
至れり尽くせりであるのである。
中を見ても、近代的てーのか、そのころの素朴な感じはいっさいないのである。
まあ、数えてみるとどうも最期に来たのは20年以上前であるので、そりゃ事情も変わるわけである。
思い出トイレの思い出は記憶の彼方へ霞んで消えるのみとなったわけである。
ううう、涙がとめどなく溢れて、「あのトイレをもとに戻せっ、責任者出てこいっ」とトイレに向かって抗議しようと思ったのであるが、トイレの前に駐車してる車の人がトイレの中にいるかもしれないので抗議は中止したのである。
トイレの思い出で泣けるとは思わなかったのである。
それでまあ、トイレの前でいつまで泣いてても始まらんので、とにかく小土肥の浜に出てみるのである。
ううむ、しかし様子が変である。
これも記憶と違うのである。
松らしき木が何本か植えてあったり、緑化しようとしてる形跡なのか芝のような草がやたらと多いし、緑色の車止めやなんだかわからん水栓みたいなもんがあったりするのであるが、前はこんなものはなくて、たーだ砂利が敷いてある殺伐とした駐車場だったのである。
まあ、そのころも繁忙期はこの付近の皆さんの重要な収入源であるから、もちろん海の家もあって、駐車場係のおじさんもいて、有料駐車場であったのであるが、あたしが来る頃の8月の終わりは海の家も取り壊して残骸だけになっていて、駐車場はおじさんもいなくて無料であったのである。
反対側にパンするとほんのすこーしその頃の面影があるのである。
おお、これだこれだ、むかし懐かし小土肥の浜の駐車場であるのである。
小土肥の浜はこのようになんにもない素朴で乱暴な風情が正しいのである。
この乱暴な風情があたしの脳をα波放出に誘(いざな)うのである。
ううむ、この写真の右の小高い丘の中腹より下にある小さな茶色い家が建て直して新しくなってるな。
その頃は毎年この小土肥の浜に泳ぎに来て、この素朴な浜がものすごく気に入って、この家を買おうと思ってたことがあるのである。
その頃はこの家は築数十年の今にも朽ちてしまいそうな古家であったのである。
おそらく老夫婦がお住まいになっていたのが亡くなられて、それを引き継いだ子供さんが立て直したのか、売りに出されて新しい持ち主がてた直したのかもしれないのであるが、まあ、勝手な推測であるのでどれもあてにはならないのである。
まあ、とにかくさらに浜に出て見るのである。
なんだこりゃ、むちゃくちゃになってる。
Camera : RICOH GXR A12 28mm
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