気功師象師匠の目に映る人生の日々である。人生は旅である。旅は癒やしである。癒やしは神である。癒やしである神のいる風景を求めて現世この世を徘徊するわけである。徘徊かよ。
2020年1月5日日曜日
令和二年正月の鎌倉を食う
まあ、なんである、本来は「気功師の食事」にアップするべきであるが、方丈の流れをくむ由緒正しいれっきとした百姓の我が家の伝統で、今後の氣の修行とご挨拶もかねて毎年鶴岡八幡宮に参拝して鎌倉の食をことほぐわけである。
上の写真は鶴岡八幡宮の境内に入る大鳥居をくぐってすぐ左手にある葉山の老舗料理店の日影茶屋による茶寮「風の杜」のありがたーい「餅入りぜんざい650円」である。
しらんがな。
この店の外見をつらつらご覧になって、どうも以前と雰囲気が変わったなと思ったら、去年の6月にリニューアルしたつーことである。
どーでもいいのである。
風の杜の売りは窓からの神奈川県立近代美術館を向こうにした源平池のながめであるが、これも食えないのでどーでもいいのである。
食いものしか興味がねーのかよ。
ねーのである。
鎌倉に来たら海鮮料理で酒を飲むというのがあたしの氣のさらなる精進であるが、これがね、昨今の鎌倉はテレビ番組で頻繁に取り上げられるせいか、小町通りも若宮大路も、にーちゃんねーちゃんであふれかえって大混乱でアップルパイだの鎌倉プリンだのてな店にぎょーれつができて、どうも海鮮料理てなものはさっぱり流行らないらしく、どんどんおなくなりになって見つけるのに往生する始末である。
このキャーキャーワイワイの騒乱を見てると、ああ、もう鎌倉も文化果つる最果ての地となって、あたしら作家の行く場所はなくなってしまうのかと覚悟を決めねばならん事態になってるのかもしれないのである。
誰が作家だ。
はいはい。
それで、若宮大路壇葛付近の路地をうろうろしてようやく「仁遊人」という酒飲みの聖地的なおもむきのある店を発見したのである。
ローマ字で「jiyoujin」とふってあるので、自由人をもじってると思うが、これも食えるわけではないのでどーでもいいのである。
それで、酒といえばやっぱり刺身であるので、食事もかねて刺身定食をご注文遊ばして、とりあえずのビールである。
ああ、なんとか今日のところは氣の昇華ための鎌倉詣での目的もいかばかりか果たして、ビールの後は久保田でのどを潤しアジをアジわうてなダジャレも出る喜びをしみじみとアジわい、深い夜のしじまに溶け込むあれれこれである。
つまんねーやつだなー。
安直なパクりまで動員して、どうしてもぶち壊さないと気がすまないのねアナタったら。
それで、暴飲酒乱の一夜が明けて翌日の、壇葛入口付近にあるホテル鎌倉moriの中華朝食である。
この朝食は、あたしの中では、ホテルでうまいと思う唯一の朝食である。
まあ、ご飯が中国粥であるので、ほとんど水分で、とんでもなくカロリーが低く、ダイエットにいそしむ方にはよろしいと思うが、巨大などんぶりのかゆを完食しても、あたしの場合は少し歩くとはらへってフラフラよてな具合である。
それでも毎年鎌倉にお泊りしたらかならず朝はこれである。
でも、くだんのにーちゃんねーちゃん大混乱の事情で、海鮮料理食って酒飲む店がどんどんなくなって、もしかすると今年で鎌倉詣ではおしまいかもしれないと危機感もつのる今日この頃である。
氣の精進のためには、バカ食いを旨とするあたしも、氣の製造元の血液血管によろしいDHAとEPAを摂取すべく立ち回るのは当然である。
「何言ってやがる、単なる酒のサカナじゃねーか」といわれればぐうの音もプーの音も出ないが、日本酒にあうのはやはり海鮮料理であるのは論を俟たないところである。
もちろん、おフランス料理にはワイン、中華には紹興酒、韓国料理にはマッコリ、沖罠料理には泡盛、タイ料理にはシンハービール、ううむ、どーでもいい、思いっきりくだらん。
そんなこんなで水仙で有名な瑞泉寺に霊氣神氣を受けに来たら腹へったので、おやつに何か食いたいなてなことで「かえで茶屋」てな店を見つけたのである。
おもいっきりの精進料理的な品揃えであるので、ますますの血液サラサラよてな具合でさらに氣は高まり鎌倉詣でのご利益いかばかりかと涙もあふれてウソ泣きしてしまうくらいのあれこれである。
とにかくおやつに赤飯であるので、これはめでたいつーことで今年もラッキーな一年であるのは約束されたようなもんである。
ありがたいありがたい。
なんでも一応ありがたがっとけば無難であるので、ゆーとけゆーとけである。