気功師象師匠の目に映る人生の日々である。人生は旅である。旅は癒やしである。癒やしは神である。癒やしである神のいる風景を求めて現世この世を徘徊するわけである。徘徊かよ。
2012年8月2日木曜日
金櫻神社の神気を撮る
山梨県甲府市にある金櫻神社である。
金櫻神社の主たるご利益は金運である。
まあ、それで、この神社にお参りしたからといって、だれもが即大金持ちになれるのかとゆーとそーでもないわけである。
そこがね、神様の不公平丸出しのところであるのである。
しかし、もしかするとあなたには神様がそのときの気まぐれて金運を授けてくれないとは断言できないわけである。
人生というのは、まあ過去の経験に照らしあわせてだいたいのことが予測できるのであるが、その中に予測でき無いことが頻々と起きるので、いーろいろお楽しみなれるようにできているのである。
もちろん、その予測できないことの中には災難もあるわけである。
しかし、逆に幸運金運の種もあちこちばらまいてくれるのである。
しかし、その神の気まぐれに気づかないとその幸運金運の種を見逃してしまい育てることはできないわけである。
だから、神社参拝つーのは、神がばらまいた種を拾いに行くことでもあるのである。
金櫻神社には少名彦命、大己貴命、須佐之男命、日本武尊、櫛稲田媛命の神々が祭祀されているわけであるが、この皆さんはなにしろ神様であるので、あんたが大将でわがままであるのである。
わがままな子供が6人もだだをこねている状態であるのである。
理性も知性も理念も論理もないのである。
ところがこのわがままな皆さんは褒められると喜ぶのである。
ちょーしにのって、幸運金運の種をばーらばら投げるのである。
逆になんかやってくれなんてーことをいうと、これ、臍を曲げて癇癪を起こして不運悪、運災、難災、災厄てな石ころやゴミを投げつけてくるのである。
つーことで神社ではいっときの油断が命取りになるである。
鳥居をくぐったら「ありがたいありがたい、神様あんたはえらいっ」といっときも休まず連呼しなければならないのである。
つまり、めんどくさいのであるが、まあ、ものごとはなんでも慣れであるのである。
あっちもこっちも前も後ろも「ありがたいありがたい」であるのである。
それで、あたしのようにあれこれ見える人は、うろうろしてる神様に「いよっ大統領!粋だねどうも、にくいよダンナッ」てなお追従を言ってこれでもかと褒め上げるのである。
すると神様てなものはわがまま放題の子供であるから、褒められればキャッキャとお喜びになって幸運金運の種をばらまくのである。
まあ、それでも当然好き嫌いはあるので、あなたが行ったら何もしなくても石を投つげるかもしれないのである。
それもこれもありがたーい神意であるのである。
Camera:LUMIX DMC-FH6
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